〈2024.1.16追記〉
以前書いた記事になりますが、大幅に補足を加えております。*1改めて目を通してみて割と表現が分かりづらく不親切だなと個人的に感じたのと、今読んでいる『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章-』にて新たに気づきがあったためです。
以降補足した箇所は文字色を変えております。
これまでの作品では「ごくごくありふれた一般人の物語」でしたが、ここにきて急にテイストが変わります。
これはある種「人生における回答」をサリンジャーなりに明示したものなのかもしれません。
というわけで以下本題へ。
テディって何者?
主人公テディ。彼の言動はおおよそ10歳の子どものものとはかけ離れています。
例えば
「ぼくは一人の女性にめぐり会って、それで瞑想を止めることになったんだ」(略)「それがなくてもぼくは、別の肉体になり変わってもう一度この世に戻らなければならなかったろうけどさ(略)」
「そのころ妹はまだ赤ん坊で、ミルクを飲んでたんだけど(略)全く突然に、妹は神だ、ミルクも神だってことが分ったんだな(略)」
などなど。
おわかりいただけましたでしょうか。
(ではもう一度・・・)
彼のモデルは恐らく「お釈迦様」
10歳の子どもながら「悟り」を開いているというわけでございますね。
他にも「インドの聖者」という文言もあったことから、お釈迦様であろうと繋げたのですが、そもそも「聖者」というだけで釈迦と断定してはいけなかったかな。
『シーモア序章』*2にて『テディ』についての言及が1、2文程度ありました。その中で『テディ』という作品はバディ・グラースが執筆した・・・ということになっていること、またそのバディ・グラースとはサリンジャー自身であるということ。それってテディという少年はサリンジャーの分身であるとも捉えられる訳です。この情報が新たに追加されたことによって、宗教観がベースであることには変わらないのですが、テディというのは摩訶不思議な少年ではなく、いちアメリカ人のサリンジャーという男性であるとするならば、もう少し作品の考え方としてとっつきやすくはなるのです。
仏教の開祖、釈迦とは?その生涯と“諸行無常”の真理をわかりやすく解説【四聖を紐解く①】|LINK@TOYO|東洋大学
☝️参考サイト。「苦行を経て釈迦が得たもの」というタイトル内にて釈迦が悟りを得た際の描写が上記引用部分と類似。
上記を踏まえもう一点。これがキリスト教とともに生きてきているサリンジャーにとっては衝撃だったであろうことが、「妹は神、ミルクも神・・・」のフレーズ。
多神教を信仰してきた人間が一神教に・・・というのも日本でだって珍しくはありません。教会もたくさんありますし。サリンジャーも同様に多神教の考えに衝撃を受け、何か足りないピースが嵌った感覚になったのではないでしょうか。実際『シーモア序章』でもこの東洋的感性にいたく感化されているのが読んでいるとわかります。最早そのことばかり書かれているし、西洋的感性なんてない方がいいとすら思ってそう――結構ボロクソズケズケな文がサリンジャーだなあなんて思ってたのですが、この『シーモア序章』について詳しくはまた別記事にします。
これがサリンジャー自身、テディという人物像を生み出したきっかけの
気づき――インスピレーションだったんじゃないかなあと予測。
キリスト教と仏教の対比
「オレンジの皮が浮いているのが面白いんじゃない」(略)「オレンジの皮があそこにあるのをぼくが知ってるってことが面白いんだ。もしもぼくがあれを見なかったら、ぼくはあれがあそこにあることを知らないわけだ。そしてもしもあれがあそこにあることを知らなければ、そもそもオレンジの皮ってものが存在することさえ言えなくなるはずだ」
哲学ですねえ。
これはキリスト教のことを指しているように思います。
聖書というのは「神と人間の契約」
なので聖書に書いてあることが「絶対」であり、「神が存在することが前提となる」
ではここで一つ疑問がでてきます。
神様って誰が見たのか。
一番近しい存在として有名なのは「イエス・キリスト」かな?しかし我々は「その目」で「神」を見ていません。いや、実際いたのかもしれない、そうなのかもしれないけど、私達にわかるのは「聖書に書いてある」ということだけ。
イエス・キリストは偶像崇拝されているようなものなので(一応感謝の印の意とされているそうですが、ちょっと無理があるような・・・)、神様と混同されがちですが、神の子であって神でありません。
これってこのオレンジの皮理論だと「神」=「いない」ってことになりませんか。
しかし、テディに興味を持って近づいてきたニコルソンに「神のことを愛しているだろう?」と問われるとテディはこう言います。
ええ、そりゃぼくは神を愛してる。でも感傷的に愛してるんじゃない。神を感傷的に愛さねばならぬなどとは神は一度も言ってやしない。(略)
キリスト教の聖書は二種類。旧約聖書と新約聖書での大きな違いは神についての解釈でしょう。
有名どころであればモーセとか。
誰が預言者になるかはわからないし、神との契約は厳しいものが多かった。ノアの箱舟もそうだし、ソドムとゴモラもそうだけど、結構人類が神により滅亡しかかっていますからね。
旧約聖書をちょこっと読んでみて、割礼についての文が出てきたときにはお股がヒュンッとなりました。私女なのに。
というわけで旧約聖書が厳しすぎたがゆえに現れたのが我らがイエス・キリスト(救世主)でございます。彼が全人類の贖罪を背負ってくれているのであらゆる罪は赦される・・・とのこと。
ちょっとこのへんはふわっとした理解しか出来ておりませんが、イエス・キリストは実在した人物であるというのがこの宗教のミソになるのではと考えております。
3分でわかる!『旧約聖書』と『新約聖書』 | 読破できない難解な本がわかる本 | ダイヤモンド・オンライン
👆️参考サイト
そして、順番前後しますが
「感情的であるということをどうして人はそんなに大事なことだと思うのかなあ」と、テディは言った。
ここに繋がるわけでございますね。
では、「愛する」ってなんでしょうか。
愛というのはそもそも概念であり、言葉では本来言い表せないものです。
ですが、人は愛することを無意識的に――自分に都合がいいように――定義づけしています。
これには「感情」の面が大きく作用している、ということ。
〜をしてくれて嬉しかった=愛されてる
〜をしてくれないから悲しかった=愛されてないんだ
といった具合。
これが人間を生きづらくしてるよね、ということなのですが
これに対して、テディが言うことには、
「感情捨てりゃいいじゃん」
簡潔に言わせてもらうと、こういうことです。
神様は何でもできる――すべてを包括しうる存在というのは間違っていないと思います。結局そんな完璧な存在に人間はついていけなかったからこそ「イエス・キリスト」というクッションのような役割が生まれたのではないか。それって会社でいう中間管理職とかそういうことではなく、細々した雑務を施してくれるどこの誰かもわからないひと・・・のような存在に近いのではないかなということ。神様を社長としてイエスを部長とするような、ある種の肩書や権力のように捉えるより、実はあなたのすぐとなりにいる名もなき人がイエスです。と言われる方が実在の人物としてしっくり来るでしょ?神とイエスはもうはっきりと切り離して考えるべきなんです。要は「ああ、神よ。愛しています」のテンションではなく「お、ちーす、あざーす。」程度の関係性で良いのではないかということ。当たり前ですがイエスが死んで3日後に復活したというのは作り話でしょうし、これが誤解しやすい発端な気もするのですが、神は神というただのテキストぐらいに考えるべき。そうすれば神を感傷的に愛するとはならないはずです*3
これが「悟り」とも言えるのではないでしょうか。
仏教の考え方は「あるもの」を「あるまま」に受け入れるということ。マインドフルネスなんかもこの考え方だと思いますが。
そこに「感情」はリンクいたしません。
「死」「病」「老」「生」などの「四苦八苦」も「そのまま受け入れる」
「悲しい」「辛い」などの「感情」はそこにございません。
これは動物的な考えに近いかも知れません。
野生動物に感情があるのかってことです。
生きることの喜び、苦悩を彼らは感じながら生きているんでしょうか。
仏教とキリスト教、
それぞれアプローチは違えど、共通する「問いかけ」は、どうすればこの世から「苦難」はなくせるか。
キリスト教は「愛し合うこと(助け合うこと)」
仏教は「受け入れること」
テディは「お釈迦様」で「アメリカ人」として転生している訳ですから、二つのいいとこ取り――サラブレッド的存在であり
サリンジャーは人としての理想系態をテディに反映させているのかもしれません。
最後の描写が意味するもの
ニコルソンがその階段を中ほどまで下りるか下りないうちである、つんざくような悲鳴が長く尾を曳いて聞こえた―幼い女の子の声に違いない。それは四方をタイルで張った壁に反響するような、遠くまで鋭く響き渡る悲鳴であった。
テディとニコルソンが別れてからの、最終文なのですが、一体全体なにがあったのか。
この悲鳴の前に、テディがニコルソンとの会話でこんなことを話しています。
たとえばこのぼくはだよ、あと五分もしたら水泳の訓練を受ける。下のプールへ下りて行ってみたら、水が入ってなかったということがあるかもしれない。(略)しかしぼくはひょっとしたら、プールの底をのぞいて見ようとしてその縁まで歩いて行くかもしれない。そこへ妹がやって来て、ぼくを突き落とすかもしれない。ぼくは頭の骨を割って即死ということだってあり得るだろう。
とどのつまり、テディの話した(予言した)とおりに終わる、という綺麗なフラグ回収でございます。
ここで気になるのは「テディは死んでどうなるのか」
キリスト教では「天国」OR「地獄」
仏教だと「輪廻転生」ですが・・・。
ぼくは死んだときに、そのまままっすぐ宇宙原理の梵(ブラフマ)に達し、二度とこの世に戻らなくてもすむというところまでは進んでなかったんだ
死んだら身体から飛び出せばいい。誰しも何千回何万回とやってきたことじゃないか。覚えてないからといって、やったことがないことにはならないよ。
良い者は「天国」悪い者は「地獄」という考え方(キリスト教的な考え方)は、だいぶ乱暴な言い方をすると「心が綺麗な人」。
前述した通り、イエスが贖罪を背負ってくれているという要素は非常に大きいと思います。もともとの厳しい契約がマイルドになりますしね。自分は罪がない=綺麗な人間である。また罪を犯したとてやり直しはいくらでもききますから。新約聖書で人々はだいぶ心の余裕ができたんじゃないかな。欧米の人たちのこういう考えは嫌いじゃございません。
そんな世の中白黒分けれるもんじゃないよっていうこれも乱暴な言い方になりますが「捻くれた人」は仏教的な道を進んでるのかなと思います。
そして一度捻くれた人は、もう心が綺麗だったときの自分に戻ることはない。
いや、逆にまた生まれ変わって、今度こそ綺麗な自分のまま死ねたら、「天国・地獄」=「宇宙原理の梵に達する」ことができるということなのでしょう。
これも仏教とはこの世の苦しみから解き放たれるためどうすれば良いのかを考え尽くした宗教だから。そしてイエスのような救世主は仏教にはいません。
「宇宙原理の梵に達する」とはいわゆる「解脱≒(キリスト教で言う天国?)」のことかと思います。*4
解脱のための要件って意外と厳しいです。特に無理ゲーなのがあらゆる生き物に対し殺生をしないという戒律。
キリスト教でも殺生をしないようにという教えはありますが、あくまで人間の範囲のみ。まあ普通に聖書内で生贄とか出てきますから・・・。
仏教は食べ物は卵も含め、蚊や蝿を殺す・・・すべて駄目です。天ぷらとか精進料理にあるけどどうしてるんだろうと思いましたが、片栗粉と水のみだそうです(ナルホドー)
まあとはいえ厳格なお坊さんや尼さん以外どの時代でもどの動物であったとしても無理でしょ?
だからお前ら諦めて魂を輪廻の輪に乗せてこいというのが仏教ですよね(と私は解釈)解脱は概念でしかなく、足掻いて足掻いて最後は諦めが肝心・・・のような。地獄へ行っても最終的には輪廻に戻されるし。
あらゆる行いにおける完璧主義度合いや罪悪感の強さが日本人と欧米で違うのってこの宗教観から来てるのもあるんじゃないかな。
というわけで、東洋的魂の持ち主であるテディはまた輪廻転生でこの世に戻ってくるのではないでしょうか。
(東洋的マインドに染まっているであろう作者の場合はどうなのだろうという疑問も同時に起こり得ますね)
さいごに
私は宗教について、『テディ』を読んで初めて興味を持って調べました。私自身は無宗教だと今でも思っていますが、調べるうち、自分のベースに宗教観は存在しているんだという発見はとても興味深かったです。やはりどちらかというと仏教のほうが調べてて頭に入って来やすいですよね。知らないうちに自分のなかに根付いてたんだなあ。
話に沿って疑問点を洗うような調べ方なので不備はいろいろあるやもしれません。
私自身の予測のみで裏付けできてない部分もあるでしょうし。なにしろ宗教って哲学ですから、調べだすとキリがない。仏教なんて経典読んでられないし、聖書もはじめの方だけしか読めてないし。
こんな人間の書いた記事ですが訂正前もこれからも読んでいただいた方、スターまでつけていただいた方、ありがとうございます。*5