日がな一日主婦の趣味ブログ

本と映画とエトセトラ

【感想・考察】ナイン・ストーリーズ ―テディ―

これまでの作品では「ごくごくありふれた一般人の物語」だったわけだが、ここにきて急にテイストが変わる。

 

これはある種「人生における回答」をサリンジャーなりに明示したものなのかもしれない。

 

というわけで以下本題へ。

 

 

テディって何者?

主人公テディ。彼の言動はおおよそ10歳の子どものものとはかけ離れている。

 

例えば

「ぼくは一人の女性にめぐり会って、それで瞑想を止めることになったんだ」(略)「それがなくてもぼくは、別の肉体になり変わってもう一度この世に戻らなければならなかったろうけどさ(略)」

「そのころ妹はまだ赤ん坊で、ミルクを飲んでたんだけど(略)全く突然に、妹は神だ、ミルクも神だってことが分ったんだな(略)」

 

 

おわかりいただけただろうか。

(ではもう一度)

 

 

彼のモデルは恐らく「お釈迦様」である。10歳の子どもながら「悟り」を開いているというわけだ。

 

 

 

キリスト教と仏教の対比

「オレンジの皮が浮いているのが面白いんじゃない」(略)「オレンジの皮があそこにあるのをぼくが知ってるってことが面白いんだ。もしもぼくがあれを見なかったら、ぼくはあれがあそこにあることを知らないわけだ。そしてもしもあれがあそこにあることを知らなければ、そもそもオレンジの皮ってものが存在することさえ言えなくなるはずだ」

 

哲学ですねえ。

これはキリスト教のことを指しているように思います。

 

聖書というのは「神と人間の契約」

なので聖書に書いてあることが「絶対」であり、「神が存在することが前提となる」

 

ではここで一つ疑問を投げかける。

 

神様って誰が見たのか、である。

一番近しい存在として有名なのは「イエス・キリスト」かな?しかし我々は「その目」で「神」を見ていない。いや、実際いたのかもしれない、そうなのかもしれないけど、私達にわかるのは「聖書に書いてある」ということだけ。

 

これってこのオレンジの皮理論だと「神」=「いない」ってことになりませんか。

 

しかし、テディに興味を持って近づいてきたニコルソンに「神のことを愛しているだろう?」と問われるとテディはこう言います。

 

ええ、そりゃぼくは神を愛してる。でも感傷的に愛してるんじゃない。神を感傷的に愛さねばならぬなどとは神は一度も言ってやしない。(略)

 

そして、順番前後しますが

「感情的であるということをどうして人はそんなに大事なことだと思うのかなあ」と、テディは言った。

ここに繋がるわけでございますね。

 

 

では、「愛する」ってなんでしょうか。

 

愛というのはそもそも概念であり、言葉では本来言い表せないものです。

 

ですが、人は愛することを無意識的に―自分に都合がいいように―定義づけしています。

これには「感情」の面が大きく作用している、ということ。

 

 

〜をしてくれて嬉しかった=愛されてる

〜をしてくれないから悲しかった=愛されてないんだ

といった具合。

 

 

これが人間を生きづらくしてるよね、ということなのですが

 

 

これに対して、テディが言うことには、

「感情捨てりゃいいじゃん」

 

 

簡潔に言わせてもらうと、こういうことです。

(そんな乱暴な)

 

 

これが「悟り」です。

仏教の考え方は「あるもの」を「あるまま」に受け入れるということ。マインドフルネスなんかもこの考え方だと思いますが。

そこに「感情」はリンクいたしません。

 

「死」「病」「老」「生」などの「四苦八苦」も「そのまま受け入れる」

「悲しい」「辛い」などの「感情」はそこにございません。

 

 

これは「動物的な」考えに近いかも知れません。

野生動物に感情があるのかってことです。

生きることの喜び、苦悩を彼らは感じながら生きているんでしょうか。

 

 

 

仏教とキリスト教

それぞれアプローチは違えど、共通する「問いかけ」は、どうすればこの世から「苦難」はなくせるか。

 

キリスト教は「愛し合うこと(助け合うこと)」

仏教は「受け入れること」

 

テディは「お釈迦様」で「アメリカ人」ですから、この二つのいいとこ取りをしている。

 

サリンジャーは人としての理想系態をテディに反映させているのかもしれませんね。

(ちょっと究極的な感じもしますが)

 

最後の描写が意味するもの

ニコルソンがその階段を中ほどまで下りるか下りないうちである、つんざくような悲鳴が長く尾を曳いて聞こえた―幼い女の子の声に違いない。それは四方をタイルで張った壁に反響するような、遠くまで鋭く響き渡る悲鳴であった。

 

テディとニコルソンが別れてからの、最終文なのですが、一体全体なにがあったのか。

 

この悲鳴の前に、テディがニコルソンとの会話でこんなことを話しています。

たとえばこのぼくはだよ、あと五分もしたら水泳の訓練を受ける。下のプールへ下りて行ってみたら、水が入ってなかったということがあるかもしれない。(略)しかしぼくはひょっとしたら、プールの底をのぞいて見ようとしてその縁まで歩いて行くかもしれない。そこへ妹がやって来て、ぼくを突き落とすかもしれない。ぼくは頭の骨を割って即死ということだってあり得るだろう。

 

とどのつまり、テディの話したとおりに終わる、という綺麗なフラグ回収でございます。

 

ここで気になるのは「テディは死んでどうなるのか」

 

キリスト教では「天国」OR「地獄」

仏教だと「輪廻転生」ですが・・・。

 

ぼくは死んだときに、そのまままっすぐ宇宙原理の梵(ブラフマ)に達し、二度とこの世に戻らなくてもすむというところまでは進んでなかったんだ

 

死んだら身体から飛び出せばいい。誰しも何千回何万回とやってきたことじゃないか。覚えてないからといって、やったことがないことにはならないよ。

 

良い者は「天国」悪い者は「地獄」という考え方(キリスト教的な考え方)は、だいぶ乱暴な言い方をすると「心が綺麗な人」、

そんな世の中白黒分けれるもんじゃないよっていうこれも乱暴な言い方になりますが「捻くれた人」は仏教的な道を進んでるのかなと思います。

 

そして一度捻くれた人は、もう心が綺麗だったときの自分に戻ることはない。

(なんか失礼だな←)

 

いや、逆にまた生まれ変わって、今度こそ綺麗な自分のまま死ねたら、「天国・地獄」=「宇宙原理の梵に達する」ことができるということなのでしょう。

 

 

というわけで、テディはまた輪廻転生でこの世に戻ってくるのではないでしょうか。

 

 

 

さいごに

だいぶ宗教色の強い記事になりましたが、(大半が宗教の話をしていた気がする)

私自身は無宗教です(汗)

 

 

なのでこれまで以上に分かりづらい記事だったかもしれません・・・

(これが限界パタリ)

 

 

実家の方は「仏教」だけど旦那の実家は「神道」だし。

でも私自身はなにも気にしちゃおりません。

 

この考え方自体は仏教的かもしれませんがね。

(・・・・うん、考えるほど沼にハマりそうだ)

 

 

 

 

いやーでもサリンジャーの考え方、私は好きだな。

 

おかげでいろいろ勉強にもなりました。

 

 

 

では、長々とここまで読んできただき、ありがとうございました。