皆さんは「信仰」というものを考えてみたことはありますか?
(いかがわしさの否めない出だし)
神様を信じるってこと?神様に祈りを捧げること?
そもそも、神って誰?なに?
祈るってどういうこと?
無宗教の多い私達日本人にはピンときにくい記事かもしれませんが、
このフラニーとゾーイーは「エゴ」を「信仰」の側面から描いた一作。
みそっかすの頭捻り出して自分なりの解釈を垂れ流しております。
なるほどな~そういう考え方もあるか~と軽い気持ちで読んでいただけると幸いです。
ストーリー
この作品は「フラニー」「ゾーイー」の二本立て。ですが、オムニバスではなく、この二本を合わせて一つの物語になります。
「フラニー」は、
グラース家の末っ子フラニーとインテリ系彼氏レーンとのデートの様子を描いたお話。フラニーはことごく彼に対し突っ掛かってしまうのですが、そのことに本人も頭を悩ませます。
「ゾーイー」では、
家で塞ぎ込んでいるフラニーを何とか立ち直らせようと兄ゾーイーが説得に汗水流すお話。
(ストーリーだけの説明なら数行で終わってしまうサリンジャーあるある)
フラニーを悩ませるもの
まず最初に言っておくことは、フラニーはレーンのことは嫌いじゃないし、むしろ好きだと思っていること。
なのですが
「すてき」と、彼女は力をこめて言った。男性というものの間抜けさ加減に対するじれったさ、それを隠すのがたまらないことがときどきある。
(略)
その他いろんなことを考えているうちに、なんだか悪いような気がしてきた彼女は、いかにもいとしそうに、少しきつくレーンの腕を抱きしめた。
彼のインテリチックな面に対しては、冷めた目で見ているというか、呆れているというのか、ともかく一種の嫌悪感のようなものを抱いています。
しかし、そのことに嫌悪感を抱くのはとても良くないことだとも感じています。
ランチの最中、インテリ系のレーンは「今度書いた論文が思ったよりいい出来だった」とか「君に読ませたい」などいわゆる自慢話をたくさんフラニーに聞かせます。
これって凄いことでしょ?とかキレイでしょ?嬉しいでしょ?悲しいでしょ?腹立つでしょ?
自分はそう思っていたとして、相手も同じ感情でいると果たしてはっきり言い切れるでしょうか。
レーンはいい大学に入り、書いた論文は評価され、そんな自分に釣り合うような才色兼備な彼女といいお店でランチデートしている。
自分と同じように喜び、誇りに感じているに違いないとそう感じるのも無理はないでしょう。
しかしフラニーはというと、レーンのしていることは凄くともなんともなくて、むしろ社会の型にハマっている(=人生勝ち組ってことなんですけどね)だけのことなのに、なにをそんなドヤ顔してるのか、理解ならない様子。
それでもレーン自身のことは好きなので、ニコニコ聞いておくのが吉とわかりつつ、どうしても心にしまっておけないフラニー。
思わず穿った物言いをしてしまいます。
つまり、あの人たちは本当の詩人じゃないってこと。あの人たちはジャンジャン出版されたりアンソロジーに入ったりする詩を書いてる人っていうだけのことよ。
どうかしちゃったんだわ、わたし。なんだかこの週末をメチャメチャにしてしまいそう。このわたしの椅子の下にはねぶたでもあったら、すっと消えて無くなりたいわ。
詩人ならばね、なにかきれいなものが残るはずだと思うの。(略)あなたの言う人たちは、きれいなものなんか、ひとつも、これっぽっちも残しやしないわ。(略)なんかすごく魅力的な文体で書かれた排泄物――というと下品だけど
こんな感じでレーンの話に水を差してはショゲてを繰り返すフラニー。
(魅力的な文体で書かれた排泄物とかいうパワーワード)
このあたりで「エゴ」臭が漂ってきているのがおわかりでしょうか?
フラニーはスノッブ(インテリ)批判はしつつも、そんな自分自身を嘆きます。この自分を責めているというのが問題のエゴだと思うのです。
批判しているだけであれば、その人にとってはそれが正当であり、世のため人のためになることだと、少なくとも当人はそう感じているでしょう。
ですが、そこから彼女は自分を責めている。
こんなこと考えて口に出してしまうなんて、なんて自分勝手な人間(=エゴイスト)なんだろうと。
世の中エゴだらけ
自分ってエゴイストなんじゃ?
そう思いだしたら何もかもエゴに見えてきますよね。
演劇部だったフラニーが「演劇はスッパリ辞めた」とレーンに話すシーンで、特にわかりやすく言及しています。
一体なぜなんだい?演劇はきみの情熱だったじゃないか。ぼくが聞いたかぎりでは、ほとんど演劇だけにしか、きみは――
演劇が悩みの種になってきたの。(略)芝居に出たときは、いつも自分がたまらなくいやになった。舞台が終わってから楽屋にいるのなんて。みんな、すごく思いやりのある、温かな気持ちにひたりながら、エゴがあちこち駆けまわってるの。
このあともエゴに対してのセリフはありますが、超長くなるので噛み砕きます。
役者というのは、いかに自分を魅せるか、目立てるかが重要ですよね。まずこれがフラニー的にはエゴ。
そして、その周りの人たち。彼らも演者(言わば著名人)の知り合いであるという自分に対して悦に入っている。これもエゴである。
自分がいかに目立てるかなんて芝居の世界では当たり前なのだし、考えなければいいだけの話かもしれませんが、フラニーはむしろ「自分は張り合ってしまう性質がある」といいます。
要するに「目立ちたい」と強く思っているということを自覚してしまった。
結局は自分もエゴだと感じている人間たちと同列なのではないかと。
これを聞いてたレーンからすれば
まるでセンスのある人間は、批評能力のある人間は、きみしかいないみたいな調子で喋りまくったんだぜ。
こう突っ込みたくなるのは当然のことで、
「エゴ」に悩みまくったフラニーがとった対処法。これが「祈り」です。
フラニーの祈り
「なぜ祈ることに繋がるんだ?」と思われるかもしれません。急にすごく宗教的になりましたよね。
フラニーは「巡礼の道」というある宗教的な本を持ち歩いています。
この本に書かれていることが魅力的で、実践に移したのが「祈り」でした。
この本によれば、どんな善人であろうが悪人であろうが、ただ機械的に祈りを繰り返すだけでも、最終的には神との合一化*1(すなわち悟り)が成されるというもの。
これ、実はキリスト教的考え方と仏教的考え方がミックスされていて、とてもおもしろいんです。
神と人間は当然ながら別物。
神の存在があるのはキリスト教の世界だけで、仏教の世界には存在しません。
神ってイエス・キリストのことでしょ?と考えているそこのあなた!イエスと神は実は≒なんです。
説明がめんどいので省きますが、聖書の解釈上は神(の子)ということになっているという認識。
(つまりイエス=人間とできない理由がある)
(イエスを生みだした大元がいるのかもしれないなあ・・・ぐらいのふわっとしたイメージで大丈夫です)
で、キリスト教では善い行いをした人間は、天国にて神の僕になることが最大の祝福。
故に神と同一化するなんてもってのほか、有り得ません。
続いて、
仏教では「お釈迦様」っているけど、あの人は神様とは違うの?
そうなんですよ、「お釈迦様」は「人間」なんです。
「お釈迦様」は「真理」を説いた人(すなわち悟り)とされていて、あくまでもベースは私達と同じ人間なのですよね。
このお釈迦様の悩まれるエピソードが物凄くフラニーの状況と近しいです。
ただですよ(ここからがおもしろい)
この「悟り」=「真理」に到達した人間は、今までにこの「お釈迦様」しかいないんです!
これって
神≠人間
釈迦=人間だけど
神≒釈迦(すなわち真理)は成立する気がしませんか?*2
死からの復活を果たしたイエスと、悟りを開いた釈迦。
西洋的考え方と東洋的考え方ってぜんぜん違うものかと思っていたけど、もしや根っこの部分って実は同じなんじゃ?
調べていて、個人的には交わらなかった二人が交わった瞬間的な感動を覚えました。
え?え?じゃあ神=人間も成立するのかというとそれは絶対に成立しないんです。不思議!
でもフラニーが神との合一化に心惹かれる理由はなんとなくわかりますでしょうか?「真理」に到達しようと「祈る」こと(信仰)は「エゴ」を捨てること(俗物的考えを捨てること)に繋がるからですね。
でも、これはそう簡単なことじゃあないッ。
(岸辺○伴風。年末のドラマもおもしろかったです)
今回はここまでとさせていただきます。
(思ったよりフラニー編が長くなりましたので分割)
(ゾーイー編もっと長くなったらどうしよう/(^o^)\)