日がな一日主婦の趣味ブログ

本と映画とエトセトラ

フラニーとゾーイー続き ――神の存在について考える――

続きましてゾーイー編に参ります。

 

こちらの作品の一番おもしろいところは、語り部がグラース家次男のバディであること。

(『フラニー』はただの三人称スタイルです)

 

設定としては作家であるバディが自身の家族の物語を散文形式で書いてみました、というてい。

 

読みはじめて早々、ここがめっちゃサリンジャーだなあと思ったワタクシ。

 

いくら登場人物の言動に「ははぁ(感嘆)」としても

「ま、そういう設定ってだけだけどね。ホントのところは脚色してるかもしれないけど」

っていう皮肉にみえるんです。

フィクションの中にフィクションを入れるのはよくある設定だけど、この入れ込み方は読者の感情を抑制するためのブレーキ的役割なのかな。

神だの祈るだの出てくるから、敢えて創作物であることを強調したいような、そんな感じがしましたね。

いやー、設定の作り方、うまいですよねえ。

 

事実

私の今度の作品は神秘的な物語でも、宗教的秘儀で人を煙にまく物語でも決してない。(略)純粋にして複雑な愛の物語なのである。

と、物語の始めにあります。

 

純粋に、深読みせんと楽しんでねってことなんでしょうけど・・・・・・

 

 

 

無理だ~~~~。深掘りしたくなる要素多すぎる~~~~。

 

 

 

というわけで皆様、考察にいそしむ私を鼻で笑いながら、先をお読みくださいね( ´,_ゝ`)

 

 

 

キャラクターの魅力

グラース家の兄弟姉妹はフラニーとゾーイーに限らず、皆幼少期からめちゃくちゃ頭が良くて(長男のシーモアは高校生で博士号をとるぐらい)、今で言うところのギフテッドかなと思います。

 

その中でもフラニーとゾーイーは美男美女。

ゾーイーは髭を剃るときに鏡に映る瞳の中の自分を見ないと、自分で自分に酔ってしまうそう・・・。

 

 

(一度でいいからそんな美男子お目にかかりたい)

 

 

 

ゾーイーは表面上、軽口をよくたたきますが、心のなかでは塞ぎ込むフラニーのことをとても心配しています。

なんとかしてあげたいとフラニーと対話を試みるけど、これがてんで上手くいかない。

ゾーイーはフラニーの現状に対し、理論的に突っ込もうとするので、落ち込みまくりのフラニーには火に油状態。お前は人に対して気を使うとか出来ひんのか!とお怒りのフラニー。

(男女関係あるある)

 

レーンとの会話では比較的しおらしかったフラニーが、ゾーイー相手だとブチギレてるのが新鮮で凄く良いんですよ。同じ頭脳レベルだからこそ、ゾーイーの物言いに腹が立つんですよね。

(あなたの言いたいことはわかるわよ!わかった上で落ち込んでるの!というコレも男女関係あるある)

 

ライ麦畑〜」「ナイン・ストーリーズ」と読んできましたが、キャラクターとしてとっつきやすいのは絶対に「フラニーとゾーイー」だと思います。

 

 

信仰の盲点

エゴからの脱却を「祈り」で達成しようとしたのがフラニーなわけですが、ゾーイーはこれに疑問を呈します。

それが、そもそもの祈る理由。なぜ祈るのか。

 

エゴから脱却したくて祈っているのならば、それは物を欲しがるのと本質的には何も変わらないのでは?

精神的安らぎを求めるのと、宝石とかそういった物質的なものを求めるのとそこに違いってないんじゃないの?と。

 

それは結局フラニーがエゴから脱却したいと思っているのに、更にエゴに囚われてる悪循環てことになるんですよね。

 

神の存在は脅威にもなる

この作品はほんっとに遊びが一つもないので、すべて語り尽くすにはやはり私自身の技量が足りない。まとめきれない。

というわけで、ここの記事では作品上これが一番の肝だなっていうところのみを抜粋しますね。

 

それは、祈りの本来の意味を改めて見直しましょうよ、ということ。

 

前回の記事にてフラニーが、祈りによって「神との合一化」を目指していることを書きました。

 

しかし、悩みから開放されたいといったような、目的のために神を利用するのは結構リスキーなこと。

 

特別生きづらさなんかを感じていないという人ならば、時たま神を拠り所に(例えば初詣とか、厄払いとか)することがあっても特に問題はないと思います。

要は気の持ちようを変えるため、ぐらいならどんどん神社も教会も活用すればいいと思うんですよね。

(一般ピーポーのいち意見ですがね)

 

ただ、このフラニーのパターン。

これはめちゃくちゃ危険。

 

エゴというのは結局のところ答えの見つからない悩みなんです。最後の手段として、救いの手を「神」に求めるというのは、信仰の負の側面を招きやすいです。

 

なぜか。

 

「神」というのはただ与えるだけの存在ではないから。

残念ながら我々から奪うのも神なんです。これも全知全能だから。乱暴な言い方になりますが、人間なんてちっぽけだからです(神が私達を苦しめようとしているとかそういうわけではありません)

 

すなわち

 

聖人(いい人)=神とは違います。

 

このままいけばフラニーは神に絶望することは目に見えている。そしてゾーイーの予想する最悪の結末が、長男シーモアのように自殺に走るのではないかということ。*1

 

祈るのはなんのため?

祈りというのは本来「神を信じています」という表明のために行うもの。ですが、前述したとおり、「信じているから〇〇してください」は信仰の目的と外れます。

つまり、「祈り」とは「無償の愛」と同意義になるのです。*2

 

 

何も求めないけど神を信じる。これってめちゃくちゃ難しいことだと思いませんか?

なぜかって、神様って本当に実在してるかわからないからですよね。

 

 

ここで「神との合一化」を思い出していただきたいのですが。

前記事では

神=人間は成り立たないと書きました。

 

でも考えてみて下さい。

あなたに「無償の愛」を提供してくれたり、またあなた自身も誰かに「無償の愛」を提供した、ということはありませんか?落ちたハンカチ拾ったとか、別に小さいことでも構いません。

気づいていないだけ、というパターンも多々あると思います。

これって、あなたもその人も神と同程度の存在ってことにはなりませんでしょうか。

 

つまり神=人間は成り立つということです。

 

更に言うならば、こいつめっちゃ嫌い!ってひともいるかと思います。この人も神、ということになります。

なぜなら批判するべきは「人」ではなくその「行い」にあるからです。

(これが一番むずかしいかもしれませんね)

 

その人自身を批判するようになるのが一番信仰の場であってはならないこと。これで人間は大なり小なり何度も過ちを犯しています。

 

 

作中ではこの「神」のことを「太っちょおばさん」と呼んでいますが、「この人のために芝居をしなよ」とゾーイーはフラニーに言います。

 

ラニーも塞ぎ込んでいる場所が家なのも、そこにはフラニーのことを常に気遣う家族がいるからなんです。

それをフラニーも無意識下では理解しているからそこにいるわけですね。

そして、その人達がフラニーにまた元気に大学へ行き、好きな芝居をしたっていい、してほしい。そう思っています。

それに応えることこそが真の「祈り」であり「無償の愛」なのではないか。*3

 

信仰によって全知全能の神、すなわち聖人君子のような良い人間になりましょう、というのは違うということ。

 

この考え方ってすごく素敵だと思いませんか?

 

ちなみにこれもキリスト教と仏教が合わさったような考え方になります。

キリスト教で有名な「汝の敵を愛せよ」や「隣人愛」に通づるところもあるし、仏教の万物みな平等の考えにも似てますね。

 

 

ただ、前記事でも書いた通り、真理に到達したのも釈迦だけ、神の子なのはイエスだけなので、神の解釈がこれで正しいかは我々人間にはわかりようがありません。

 

ただ、わたしは「神」「信仰」というものがこの作品で腹の中にストンと落ちた気がしました。

 

 

どんなに辛い人生を送った人でも、前向きに生きていけるのは、この「太っちょおばさん」の存在があるから、というのはあり得る話なんじゃないかな。

 

 

 

ちなみに、作品的にもこの解釈が正解かはわかりません。

サリンジャーは解説なんかの類めちゃくちゃ嫌いな人ですからね(プロフィールを載せるのすら嫌がったらしい)

おそらく他の方は他の方で私とは別の宗教哲学があるはずなので、違った見解の方もいると思います(という保険)

 

 

 

さいごに

長すぎて記事が分かれてしまいましたが、これでも作品全体の5分の1ぐらいの内容だと思います(^^;)

他にも素敵なことがたくさん書いてあるんですよ、ほんとに・・・!

 

本自体は全然ボリュームはないのに、この作品も「ナイン・ストーリーズ」同様、少なくとも2~3回は読まないと自分の中の答えが見つけ出せません。非常に哲学的。

 

やっぱり読みやすいのは「ライ麦畑~」だなあ。

 

 

では、ここまでお読みくださりありがとうございました。

*1:「バナナフィッシュにうってつけの日」のこと

*2:キリスト教では祈るのは極力シンプルにしたほうがいいらしいです。「信じていること」が一番重要なので。

*3:本人的に嫌なことを、相手のためにしろという共依存的なのとはのはまた違います。一応補足。