当シリーズに限らずブラッド・バード監督作品は想像の余地を残してくれることが多い(多いと言ってもあとは『レミーのおいしいレストラン』ぐらいしかないけれど)
スピンオフとかいくらでもできそうだなと思う。
バイオレットとトニー恋愛模様、ジャック・ジャックの発展途上のスーパーパワー、ボブからダッシュへのインクレディビール継承、などなど
『インクレディブルファミリー』以降で気になることもたくさんあるし
『Mr.インクレディブル』以前のボブとヘレンの馴れ初めや、ルシアスの奥さんハニーもどんな人物像なのか興味が湧く。
でもそれを作品化してしまうとここまで打ち立ててきたキャラクター像が崩れるよなというのもわかる。ストーリーとしては綺麗に終わってますしね。
想像の余地有りきで楽しむ作品だと思ってます。
まあそもそもジョン・ラセターがいないピクサーで続編作るのも難しいよなあとも思ったり思わなかったり・・・。
というわけで、私なりに『Mr.インクレディブル』シリーズの世界観を考察してみた――はじまりはじまりです。
スーパーヒーローになる条件
我々の共通認識としてスーパーヒーローとは基本
清く正しく人々のお手本になるような人間であり、弱きを助け強きを挫く正義の味方である・・・
というと聞こえはいいですが、じゃあそれって具体的にはどんな素養を指すのか。
正しさとはなんなのか。弱いとは?強いとは?
作中ではヒーローになる要件について、仄めかすセリフがいくつか出てきます。
「パワーがないとダメ?パワーがなくてもヒーローになれる」/インクレディボーイ
「あの子達もパワーを持ってる。ヒーローなんだ」/ボブ
これがサラッと出てくるので聞き流しがちなのですが、
ヒーローかそうでないかの基準は己の正義とかのマインドどうのではなく、
ズバリ特殊能力の有無にアリ。
『Mr.インクレディブル』で
バイオレットとダッシュが敵のモブ兵隊にうっかり見つかってしまうシーン。
そこでふたりともスーパーパワーを使ってその場から逃げようと試みますが、それを見たモブ兵は
「スーパーヒーローだ!」
と言います。
「スーパーパワーだ!」ではなく「スーパーヒーローだ!」なんです。
このセリフからもスーパーヒーロー=正義の味方という意味合いではなく、
パワー持ちのことを「スーパーヒーロー」と一般的には呼称されてることがわかります。
そういう「人種」というニュアンスなんでしょうね。
我々の思う正義の味方云々は後付け――世間からの評価というだけのことなんでしょう。勝てば官軍的なそんな感じ。
逆にいうとパワー持ちでなければどんなに望んでもヒーローにはなれないというシビアな側面もあると言えますね。
ではここで一つ疑問が。
パワーを持ってない一般人でも、ヒーローと同等かそれ以上の――なにか他の「力」を作り出したとしましょう。
その力を用いれれば、例外的にその人は「ヒーロー」として認められるのか。
これに関しては「認められる」が答えにはなりますが、
これがまた「力」を使えるというだけでなく、それに伴う大胆不敵さとか覚悟が人並み以上に伴ってないと難しい。
すなわち大きすぎる力――それも人工的に生み出そうとする力は大概その人の手に余ることがほとんどです。
結局パワーを御しきれなかったり、逆に粗末な使い方に留まってしまったり。
その点、「生まれながらに備わっているスーパーパワー」はその人にとって、手足を動かすのと同じくらい容易いもの。
拳銃の引き金を引くのも一般人は躊躇するけれど、それ以上の殺傷力とも言えるスーパーパワーをヒーロー達は疑問も躊躇いもなく、当たり前に使うことができる。
これを踏まえて、ヒーロー活動違法が示すことは
これまで出来ていたいた事が出来なくなってしまった――仕事をクビなる的なことが問題というより、その人のルーツやアイデンティティを否定されたという論点のほうが正しい気がする。
実際バイオレットやダッシュはグレる一歩手前感がありましたし、
一部の人々はヒーローの人権問題について声を上げているようでしたからね。
ヒーロー活動違法に伴う行動制限について
そもそもヒーロー活動とは何を指すのか、具体的に何をすることが違法なのかという話です。
ヒーロー活動のイメージは警察・消防・軍が行う治安維持活動や救助活動のことだろうとは思いますが、
更に広義的に「スーパーパワーを使った活動全般」を指していると思われます。
ですが前述の通り、スーパーパワーは自身の手足と同義。ふとした瞬間にパワーが発動してしまったなんてこともあるでしょう。
それだけで違法行為とみなされ、逮捕というのはいくらなんでも罪が重すぎますね。
ここではパワーを使用したことよりも、意図的に使おうとしたかどうかというのが、焦点になるのではないでしょうか。
そこで判断基準になるのがマスクとスーツ。
まず、スーパーヒーローというのは素性不明です。いつでもどこでもマスクとスーツで身元を隠した上でスーパーパワーを行使します。
任務かどうかに関わらず、プライベートであってもです。
ボブとルシアスが警察の無線を盗聴して火事の現場に向かうシーンやルシアスがハニーにスーツの場所を聞くシーンからも分かるように
パワーを使うときには少なくともマスクは必須ということ。
なので「スーパーパワーを使用」だけでなく、加えて「マスクやスーツを着用してスーパーパワーを使うこと」がすべて法律上NGになるのだろうなと推察されます。
なのでマスク無しでパワーを使うのは法的にはアリといえばアリ――言い訳が成り立つのかもしれません。
ですが、そもそも素顔のままでパワーを使うのはSNS上に名前・住所・電話番号を乗せるぐらいリスキーというのは想像に難くありませんね。
では、『インクレディブルファミリー』にてヒーロー活動が違法状態にも関わらず、
ヘレンがイラスティガールとして公に活動する場面が何度か出てきます。
どこが法の抜け穴になっていたのか。事件ごとに見ていきます。
①ホバートレイン暴走
ヒーロー達の雇い主であるウィンストンが所管の警察官署長と金銭的なやり取りをしたことを示唆するセリフが有った為、ヒーロー活動をしても問題なし。
②大使襲撃
これはイラスティガールへのインタビュー中に突発的に起こったため、通りすがりの慈善活動的な扱いになるのではと推察。
③偽スクリーンスレイヴァーとの対峙
こちらはTV中継がなされていたが、アナウンサーから
「どこにいるのか」の問に
「ヒーロー活動」ではなく「任務中なの。詳しくは言えない」と答えているのでセーフ(スーパーパワーを使ってないことにすればよし)
偽スレイヴァーは捕まえたが、その間の様子は中継されていない*1ので(ウィンストンの力で)後はどうとでもなる。
もちろん逮捕しようと思えば警察だって「公務執行妨害」であったり「器物破損」であったりなにかしら理由をつけてできたことであります。
それでもそうしなかったのは
一つはヒーロー活動による恩恵を警察側も受けれること、もう一つは世論の支持。応援のデモが起こる事態になるほど、ヒーローへの支持が急上昇したため。
ここで重要なのはこういうムーブメントに繋がったのは、
イラスティガールがヒーローとして正しいことをしたからだけではなく、政治や経済界にパイプのある優秀なスポンサー(デブテック)がいたからというのが結構大きい。
例えばウィンストン以上の権力者がヴィラン側に回ればまたヒーローの権威が失墜するでしょう。
要はヒーローの活躍やヴィラン暗躍の裏でスポンサー同士札束の殴り合いをやってるんですよね。
絶対ヴィラン側にもウィンストンみたいな金持ちがバックについている気がする。
そのへんのオトナの事情をヘレンやルシアスは理解はして世の流れに迎合していそうな気がしますが、ボブはそういうことには関心がなさそう。というか、損得勘定では動く人ではないんだろうなと思う。
こういうところがMr.インクレディブルがNo.1ヒーロー足り得る要素のひとつだろうなとも思うんですけどね。
『Mr.インクレディブル』というタイトルにも関わらず、印象に残るのはイラスティガールだったりフロゾンだったりって思うのは私だけでしょうか。
Mr.インクレディブルは活躍しないわけではないけど主人公なのに意外と薄味って感じがする。
まあ確かにNo.1ヒーローに華を持たせる演出をしても捻りがないですよね。
スーパーパワーの設定自体、某有名ヒーロー作品のオマージュなわけで、わざわざ説明の必要もないだろうということなのでしょうが、
NO.1という記号だけに留まらない強さが設定として練り込まれております。ここが『Mr.インクレディブル』のテーマに直結しているとも言っていいでしょう。
まず、こちらの作品舞台は1962年です。私てっきり2000年前後かと思ってたんでビックリしました。テクノロジー発達しすぎ。でも、なんでテレビ白黒なんやろうとか諸々の疑問は解消されました。
で、ヒーロー活動違法になるのがここから15年前になりますので、1947年です。
ちょうど第二次世界大戦が終わったころ。つまり、世界中でヒーロー大戦してたであろうころ(たぶん)のNo.1ヒーローがMr.インクレディブル。当時のヒーローって絶対に核兵器とかと同等の扱いだった気がするし、彼みたいに派手に暴れられるタイプがトップにくるのも納得なんですよね。
その後終戦して、民意が軍縮に傾いてきたのもヒーロー活動違法になった一つの理由な気がします。
因みになんですが、ヒーロー活動が違法になってからも
イラスティガールは暫くヒーローとして秘密裏に仕事をしていたらしく、これも世界大戦から冷戦へ移ったことが要因なのではないかなと。あのスーパーパワーは隠密行動にうってつけすぎますもんね。
m.youtube.com
さて、話をもどして。
シンドロームが開発したオムニドロイドというロボット。こちらのロボットは数々のヒーロー達を亡き者にしてきた最強兵器。
サラリーマン漬けの生活でお腹ポヨポヨの状態でもver.8ぐらいのオムニドロイドを破壊できるパワーと戦闘の勘があること、
バイオレットのシールドすらぶっ壊す重量を持つ*2更新版オムニドロイドの攻撃を数秒だけでも受け止め続けることができること。
これだけでもMr.インクレディブルが他のヒーローに比べ抜きん出た強さを持っていることがわかります。
ただし彼の真の強さはここに留まらず。
それを如実に表しているのが
ヘレンと子ども達が殺されたと思い(実際には生きていたが)、キレたボブがミラージュを殺そうとするシーン。
シンドロームに「やってみな」と煽りまで受けたにも関わらずボブは振り上げた拳を降ろします。
憎しみによる殺戮に意味はないとわかるレベルになるまで、どれほどの経験を彼は積んできたのか。
プロかどうかの境目ってここなのではないでしょうか。
私がボブの状況なら間違いなくミラージュを捻り殺してますもん。
きっとボブがこういった決断ができるまでにも、数え切れない修羅場をくぐってきてるんだろうし、何度もヒーロー活動のなかで人並みに後悔ややり切れなさとか感じてたんではないだろうかと思う。
ヘレンと子ども達が死んだのも自分にだって非があったとそこで思える(たぶん)のが凄い。
でも家族にこのままでは危害が及ぶと判断したら即座にコロスモードになれるところは彼のおっかない一面。ヒーローも聖人ではないということですね。
イラスティガールは逆で悪人であっても殺そうとはしない――法の裁きに委ねようとするのがまたいい対比。
まあ、執着心を拗らせたシンドロームと
(間違いかどうかは置いといて)自分の正義を貫こうとしたスクリーンスレイヴァーだとまた危険度が異なるからというのもあるかもしれませんが。
フロゾンはどうなのかなあ。彼はクールぶってるけど、意外と情がありそう。殺したと見せかけて逃がしてあげるとか急所外すタイプな気がする。
とまあ、ここまで書いてきて
この考察自体、そんな設定某有名ヒーロー映画や少年ジャンプ系で散々擦られてるやんって感じなのですが・・・
それでも新鮮味を感じる面白さがあるのは演出力とそれに伴う作画力なんですよね間違いなく。
製作風景を見ていると、キャラクターの少しの挙動――身体の向きとか肩の位置まで細かく指定が入っています。
こういう理解不能なレベルで拘れるのがアニメのいいところ。
実写でやろうとすると俳優さんが壊れてしまいますね。
ディズニーのいいとこって本来こういうとこだったんだよなと感じたのは私だけではないはず。
ストーリー自体に捻りはない――むしろ元あるものを流用してるけど、音楽、世界観、キャラの動き・・・のみならず動植物や無機質なものの動きまで、それら1カット1カットが生きてるようで芸術的でしたね(過去形)
最近のはピクサー含め『トイ・ストーリー4』以降観れてませんが、そもそもあらすじ見るだけで話が政治的でつまらんし、何よりお金のニオイがキツくて・・・。
こういうディズニーへのメタ的ディスりが「昔は良かったですねえ」というモブおじいちゃんのセリフに詰まってるわけですね。
しかも声優がナイン・オールドメンと呼ばれたディズニー伝説のアニメーターのお二人。完全に確信犯ですよ。
まあでも昨今の窮屈感ある傾向はディズニーに限りませんけどね。最近の日本のアニメも――ジブリ全盛期(千と千尋~)世代からすると何だか味気(捻り)無く感じてはおります。
ふー、少しグチグチしてしまいました。
最後に『インクレディブルファミリー』の一押しシーン。
映画館へパー家全員で送ってもらうことになったトニーとバイオレット。
そこでトニーが「君んとこの家族仲いいんだね」と言ったことに対し、
バイオレットが「そうかな、そうかも」と言うセリフが凄く好きです。
ここに来るまで紆余曲折だったバイオレットの貴重な素直シーン。