日がな一日主婦の趣味ブログ

本と映画とエトセトラ

『バービー』――"Hi,Barbie!"なノリがもっと欲しい

 

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マーゴット・ロビーは可愛かった。齢33(公開時)には見えない陶器肌・ぱっちりおめめ・抜群のプロポーション

あんなコテコテレトロのワンピやハイレグを着こなせるのは彼女以外には居るまい。

 

コメディでマッチョなライアン・ゴズリングを堪能したくて観たのだけれど、圧倒的なマーゴット・ロビーフェミニズム圧。

 

昨今のフェミニズム原液をそのまま飲まされている感覚になったので苦手な方は要注意。

私も女性という身なので彼女らの主張はわからんでもないけれど、全世界の人間の目に触れるような媒体では声高に叫ぶのはやめてほしい。そういうのは身内だけの閉鎖的空間でお願いしたい。

 

まあそれはそれとして、この映画そのものにかなりガックシしてしまったというのが正直なところ。

あくまで私が個人的に感じたこと、というのは強調して・・・・残念だった点を2つ書こうと思います。

 

その1 バービーである必要がない

物語のなかのバービーはまんま我々の実生活に則しているあのバービー。ゆえにマテル社のプロモビデオ的映画になるのは必然。*1だからこそバービー人形にしかできないことを見せてほしかった。哲学とかジェンダー観なんかの思想系ってエッセンスとしてはいいと思うけれど、話の筋にするのはちょっと難がある。*2私としては人形の世界観をどう魅せるのかをもっと追求してほしかった。大金を投入した「映像」がコレかあ・・・。コレでアカデミー賞の作品賞にノミネートかあ・・・と。

例えば『ミニミニ大作戦』ってミニクーパーメインだけど、小型車の強みを活かしたアクションが新鮮じゃないですか。このときのジェイソン・ステイサム今ほどステゴロ感なくて爽やかでカッコイイじゃないですか(関係ない)

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こういう感じで私はもっとバービー人形そのものを楽しみたかったかな。バービーには人種や背景が多種多様な個体がいる。これはリカちゃん人形にはないし、バービーだけが持つ強みだとは思う。だからこそバービーランドではもっと"Hi,Barbie!"以上のバービー同士の絡ませ合いが必要だったのではと思う。付属のおもちゃももっと出してよかっただろうし・・・。敢えての安っぽいCGもなんかうまく映えてなかったな。そのへんは我が国が誇る仮面ライダーや戦隊を見習ったほうがいいのでは?とも思ってしまいました。

っていうかそもそもバービーランドって要ったのか?セットや歌、ダンスは華やかだけど根本的にどういう場所なのか・・・。人間社会との相関関係も意味不明だし。人間がバービーランドに侵入しても何も起きないし、人間の世界でバービーの人形いっこも出てこないし、世界観の説明不足感が否めませんでした。

 

 

その2 マーゴット・ロビーの演技がびみょい

ビジュアルだけみれば完成度合いは申し分なし。予告だけ見ていてもこれは中々すごいものが見れるかもしれないとマーゴット・ロビーに対する期待値をあげてしまってました。

この作品のストーリーの筋は、人形であるバービーが感情や老いのある人間に惹かれ、自分自身も「そうなりたい」と感じていく――言わばアイデンティティの再構築にあります。ということはただの人形バービーと目覚めたバービーでの演じ分けが、この作品のド肝と言ってもいいと思うんですよ。それが残念なことにバービーの変化が全くわからない。マーゴット・ロビーちゃんと役作りしてたのかな?監督ともすり合わせとかしてる?って聞きたくなるぐらい演技が単調なんですよね。難しいでしょうけど、人形を演じるの。

これが出来ているだけで、30点の作品だったとしても70点ぐらいには見応え度は変わったと思います。

どれだけ見た目を完璧に近づけたとしても、所作云々でキャラ造形が一気に崩壊してしまう。ガラスの仮面ってこういうことだよなと心から理解。

 

 

そもそも1回観ただけでは話の意味が本当にわからなかったので他の方の考察を読んでやっと上記の意図が汲み取れたんですけどね。複数回見て、真のテーマを理解出来るような作品は好きではありますが、申しわけないけどどうにも余韻がフェミニズムすぎる。人間と人形の話だったら逆にこのフェミニズムがノイズなっとるんですよ・・・。マーゴット・ロビー他がバービー達を洗脳(?)から解いていくシーンは完全に置いてけぼり食らってましたもん。

 

 

ライアン・ゴズリングアカデミー賞の場にて、グレタ・ガーウィグ監督とマーゴット・ロビーアカデミー賞にそもそもノミネートされなかったことに対して苦言を呈していました。

映画未見でこの記事だけ読んだときは『オッペンハイマー』と同じくらい話題だったのにどうして?とは思っていました。観たら合点。そもそも映像作品として「うーん・・・」って感じ。

 

 

ちなみに息子にはこの映画、割と好感触でした。冒頭のバービーランドのシーンがキャッチーで明るくてピンクピンクでかわいらしいのでハマったようです。

 

 

*1:製作:マテルになってるしね

*2:若草物語のときはうまく落とし込んでいたけれど

フォールガイ感想そしてムスコの洋画デビュー

3歳のムスコと行ってまいりました。

 

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一応赤ちゃん向けの作品を観に一度映画館へ足は運んでいるのですが、たぶんもう覚えてないだろうな。

 

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ちゃんとスクリーンを見て音を聞いて作品を楽しんでいた、と言う意味合いでは今作がデビューになるんですかね。

 

さて、当然ながら親であるワタクシは100%映画には集中できておりません。火曜日の昼間というド平日をチョイスしましたが、少数ながらお客さんはおられましたし、暗い・大画面・大音量という彼にとっても初めての環境。3歳児は何をしでかすかわかりませんよ、ええ。

 

とはいえ日々の生活の中で

 

  1. 自宅テレビで観る映画はすべて通して観ることができる。
  2. ムスコが最近ハマって観ている『おさるのジョージ』で映画館をモチーフにした回があり、なんとなく映画館がどういう場所かは理解できている(ように感じた)
  3. 自分のやりたい欲だけでなく、相手に合わせることもできるようになってきた。

 

以上の理由から「6割方は大丈夫だろう」と判断。

そしてこれはラッキーというべきなのか、

フォールガイがそこまでヒットしなかった=お客さんが少ない。

これで「9割方大丈夫だろう」に跳ね上がり、映画館へ行く決心がつきました*1

 

それでもあとの1割何があるかわからないので結局ずっとハラハラはしっぱなしでしたね。

 

 

まずですよ、上映前のCMが退屈で「外、いく」と言い出さないかが第一鬼門、頼むから(早く暗転してくれ~)と念じてましたがそこは大人しくポップコーンを食べたりおもちゃで遊んだりしていて問題なしでした。

 

その次。予告にホラーが流れる。『ミーガン』『エイリアン』新作、あとヴァンパイアが出てくるやつです。タイトルは忘れました。

なんでアクションコメディやのにホラーの予告流すんじゃいと、ムスコの手を握りつつ様子を伺っていましたが、本人は全く持ってノーリアクションでございました。意外とホラーもいけるクチなのかしら。

 

そんなこんなで無事に映画開始までを乗り切りました。

 

さて、肝心の本編ですがいい意味でわかりやす過ぎる映画でした。脳みその容量を半分ぐらいムスコの動向に割いていても「今なんのシーン?」なんてこともなく。失踪事件の犯人も「絶対コイツだな」と出てきた瞬間にわかってしまうぐらい単純明快。アクション・ロマンス・サスペンスも綺麗に切り替わるので観る側に易しい作りになっております。

 

見せ場であるスタントやカーアクションのシーンは「ムスコ、寝てる?」って確認してしまうぐらい微動だにせずスクリーンを観ていたので、そこは私も全力で映画を楽しませてもらいました。

他にも薬を盛られて戦闘覚醒ゴズリングやボートチェイスなどなど細々アクションを入れてくれていて、合間合間にエミリー・ブラントとのロマンスな会話劇を挟んだり失踪事件を追ったりしていく感じですね。でもこういうジャンルをいろいろ詰め込みタイプの映画にも関わらず、最後「結局なんの話やったん?」ってならないのは、ラストの畳み方がとても綺麗だから。

冒頭シーンのオマージュのようなラスト。そして見せ場で流れるテーマソング。こういうの私、大好きです。90年代の洋画を彷彿とさせました。

ていうか、それを目指して作られたんだろうなと思わずにはいられない。

 

 

うちのコは、ゴズリングが口説くシーン(要は会話メイン)になると途端にウネウネ動いて「抱っこ」と要求。退屈そうなのわかりやすかった・・・。前後左右に人がいなかったから良かったですが、7割以上客席が埋まるような映画だと連れて行くのはまだやめておいたほうがいいなと脳内メモ。

「抱っこ」以外にも上映中に全く喋らないわけではなかったですし、身を乗り出すこともあったので。

上映中にキャラのセリフを復唱しだすのは予想外でしたが、*2思ってた以上に集中して映画を観ていたとは思います。2時間超えの映画なのによく頑張った。

 

 

 

ひとつ心残りなのは、吹き替えだと弾丸系コメディのテンポ感がイマイチ伝わりにくい。特にアーロン・テイラー=ジョンソンCVツダケンが最後イマイチノリきれてないように感じました。ツダケンの声自体が元々ネットリしてるしなあ。

基本字幕人間なのでめちゃくちゃ席をとるとき悩みましたが、結果的には吹き替えで正解でしたね。字幕にしてたら途中退場してたかもしれない。当たり前ですがムスコ、字読めないし。

 

 

おかげさまで問題なくエンドロールまで堪能できて非常に良かったです・・・!

母、満足なり。

 

上機嫌に映画館を後にできたので、ムスコへのお礼も兼ねてゲーセンで何個かゲームをやらせて、お菓子を買って帰宅いたしました。

 

次は9月にリバイバル上映の『ライオンキング』でも連れてってみようかなと画策中です。

 

*1:万が一にも『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』や『ジョン・ウィック』ばりに人気だったらどうしようかと思っていました

*2:「安全第一だぞ!ってセリフに「あんぜん!」って返したり

Mr.インクレディブルシリーズ考察してみた

当シリーズに限らずブラッド・バード監督作品は想像の余地を残してくれることが多い(多いと言ってもあとは『レミーのおいしいレストラン』ぐらいしかないけれど)

スピンオフとかいくらでもできそうだなと思う。

バイオレットとトニー恋愛模様、ジャック・ジャックの発展途上のスーパーパワー、ボブからダッシュへのインクレディビール継承、などなど

『インクレディブルファミリー』以降で気になることもたくさんあるし

 

Mr.インクレディブル』以前のボブとヘレンの馴れ初めや、ルシアスの奥さんハニーもどんな人物像なのか興味が湧く。

 

でもそれを作品化してしまうとここまで打ち立ててきたキャラクター像が崩れるよなというのもわかる。ストーリーとしては綺麗に終わってますしね。

想像の余地有りきで楽しむ作品だと思ってます。

 

まあそもそもジョン・ラセターがいないピクサーで続編作るのも難しいよなあとも思ったり思わなかったり・・・。

 

というわけで、私なりに『Mr.インクレディブル』シリーズの世界観を考察してみた――はじまりはじまりです。

 

スーパーヒーローになる条件

我々の共通認識としてスーパーヒーローとは基本

清く正しく人々のお手本になるような人間であり、弱きを助け強きを挫く正義の味方である・・・

というと聞こえはいいですが、じゃあそれって具体的にはどんな素養を指すのか。

正しさとはなんなのか。弱いとは?強いとは?

 

作中ではヒーローになる要件について、仄めかすセリフがいくつか出てきます。

「パワーがないとダメ?パワーがなくてもヒーローになれる」/インクレディボーイ

「あの子達もパワーを持ってる。ヒーローなんだ」/ボブ

これがサラッと出てくるので聞き流しがちなのですが、

ヒーローかそうでないかの基準は己の正義とかのマインドどうのではなく、

ズバリ特殊能力の有無にアリ。

 

Mr.インクレディブル』で

バイオレットとダッシュが敵のモブ兵隊にうっかり見つかってしまうシーン。

そこでふたりともスーパーパワーを使ってその場から逃げようと試みますが、それを見たモブ兵は

「スーパーヒーローだ!」

と言います。

「スーパーパワーだ!」ではなく「スーパーヒーローだ!」なんです。

このセリフからもスーパーヒーロー=正義の味方という意味合いではなく、

パワー持ちのことを「スーパーヒーロー」と一般的には呼称されてることがわかります。

そういう「人種」というニュアンスなんでしょうね。

我々の思う正義の味方云々は後付け――世間からの評価というだけのことなんでしょう。勝てば官軍的なそんな感じ。

 

 

逆にいうとパワー持ちでなければどんなに望んでもヒーローにはなれないというシビアな側面もあると言えますね。

 

ではここで一つ疑問が。

パワーを持ってない一般人でも、ヒーローと同等かそれ以上の――なにか他の「力」を作り出したとしましょう。

その力を用いれれば、例外的にその人は「ヒーロー」として認められるのか。

 

これに関しては「認められる」が答えにはなりますが、

 

これがまた「力」を使えるというだけでなく、それに伴う大胆不敵さとか覚悟が人並み以上に伴ってないと難しい。

すなわち大きすぎる力――それも人工的に生み出そうとする力は大概その人の手に余ることがほとんどです。

結局パワーを御しきれなかったり、逆に粗末な使い方に留まってしまったり。

 

その点、「生まれながらに備わっているスーパーパワー」はその人にとって、手足を動かすのと同じくらい容易いもの。

拳銃の引き金を引くのも一般人は躊躇するけれど、それ以上の殺傷力とも言えるスーパーパワーをヒーロー達は疑問も躊躇いもなく、当たり前に使うことができる。

 

これを踏まえて、ヒーロー活動違法が示すことは

これまで出来ていたいた事が出来なくなってしまった――仕事をクビなる的なことが問題というより、その人のルーツやアイデンティティを否定されたという論点のほうが正しい気がする。

実際バイオレットやダッシュはグレる一歩手前感がありましたし、

一部の人々はヒーローの人権問題について声を上げているようでしたからね。

 

ヒーロー活動違法に伴う行動制限について

そもそもヒーロー活動とは何を指すのか、具体的に何をすることが違法なのかという話です。

ヒーロー活動のイメージは警察・消防・軍が行う治安維持活動や救助活動のことだろうとは思いますが、

更に広義的に「スーパーパワーを使った活動全般」を指していると思われます。

ですが前述の通り、スーパーパワーは自身の手足と同義。ふとした瞬間にパワーが発動してしまったなんてこともあるでしょう。

それだけで違法行為とみなされ、逮捕というのはいくらなんでも罪が重すぎますね。

 

ここではパワーを使用したことよりも、意図的に使おうとしたかどうかというのが、焦点になるのではないでしょうか。

そこで判断基準になるのがマスクとスーツ。

 

まず、スーパーヒーローというのは素性不明です。いつでもどこでもマスクとスーツで身元を隠した上でスーパーパワーを行使します。

任務かどうかに関わらず、プライベートであってもです。

ボブとルシアスが警察の無線を盗聴して火事の現場に向かうシーンやルシアスがハニーにスーツの場所を聞くシーンからも分かるように

パワーを使うときには少なくともマスクは必須ということ。

なので「スーパーパワーを使用」だけでなく、加えて「マスクやスーツを着用してスーパーパワーを使うこと」がすべて法律上NGになるのだろうなと推察されます。

なのでマスク無しでパワーを使うのは法的にはアリといえばアリ――言い訳が成り立つのかもしれません。

ですが、そもそも素顔のままでパワーを使うのはSNS上に名前・住所・電話番号を乗せるぐらいリスキーというのは想像に難くありませんね。

 

では、『インクレディブルファミリー』にてヒーロー活動が違法状態にも関わらず、

ヘレンがイラスティガールとして公に活動する場面が何度か出てきます。

どこが法の抜け穴になっていたのか。事件ごとに見ていきます。

 

ホバートレイン暴走

ヒーロー達の雇い主であるウィンストンが所管の警察官署長と金銭的なやり取りをしたことを示唆するセリフが有った為、ヒーロー活動をしても問題なし。

②大使襲撃

これはイラスティガールへのインタビュー中に突発的に起こったため、通りすがりの慈善活動的な扱いになるのではと推察。

③偽スクリーンスレイヴァーとの対峙

こちらはTV中継がなされていたが、アナウンサーから

「どこにいるのか」の問に

「ヒーロー活動」ではなく「任務中なの。詳しくは言えない」と答えているのでセーフ(スーパーパワーを使ってないことにすればよし)

偽スレイヴァーは捕まえたが、その間の様子は中継されていない*1ので(ウィンストンの力で)後はどうとでもなる。

 

もちろん逮捕しようと思えば警察だって「公務執行妨害」であったり「器物破損」であったりなにかしら理由をつけてできたことであります。

それでもそうしなかったのは

一つはヒーロー活動による恩恵を警察側も受けれること、もう一つは世論の支持。応援のデモが起こる事態になるほど、ヒーローへの支持が急上昇したため。

ここで重要なのはこういうムーブメントに繋がったのは、

イラスティガールがヒーローとして正しいことをしたからだけではなく、政治や経済界にパイプのある優秀なスポンサー(デブテック)がいたからというのが結構大きい。

例えばウィンストン以上の権力者がヴィラン側に回ればまたヒーローの権威が失墜するでしょう。

要はヒーローの活躍やヴィラン暗躍の裏でスポンサー同士札束の殴り合いをやってるんですよね。

絶対ヴィラン側にもウィンストンみたいな金持ちがバックについている気がする。

 

そのへんのオトナの事情をヘレンやルシアスは理解はして世の流れに迎合していそうな気がしますが、ボブはそういうことには関心がなさそう。というか、損得勘定では動く人ではないんだろうなと思う。

こういうところがMr.インクレディブルがNo.1ヒーロー足り得る要素のひとつだろうなとも思うんですけどね。

 

Mr.インクレディブル/ボブ・パーの強さ

Mr.インクレディブル』というタイトルにも関わらず、印象に残るのはイラスティガールだったりフロゾンだったりって思うのは私だけでしょうか。

Mr.インクレディブルは活躍しないわけではないけど主人公なのに意外と薄味って感じがする。

まあ確かにNo.1ヒーローに華を持たせる演出をしても捻りがないですよね。

 

スーパーパワーの設定自体、某有名ヒーロー作品のオマージュなわけで、わざわざ説明の必要もないだろうということなのでしょうが、

NO.1という記号だけに留まらない強さが設定として練り込まれております。ここが『Mr.インクレディブル』のテーマに直結しているとも言っていいでしょう。

 

まず、こちらの作品舞台は1962年です。私てっきり2000年前後かと思ってたんでビックリしました。テクノロジー発達しすぎ。でも、なんでテレビ白黒なんやろうとか諸々の疑問は解消されました。

で、ヒーロー活動違法になるのがここから15年前になりますので、1947年です。

ちょうど第二次世界大戦が終わったころ。つまり、世界中でヒーロー大戦してたであろうころ(たぶん)のNo.1ヒーローがMr.インクレディブル。当時のヒーローって絶対に核兵器とかと同等の扱いだった気がするし、彼みたいに派手に暴れられるタイプがトップにくるのも納得なんですよね。

その後終戦して、民意が軍縮に傾いてきたのもヒーロー活動違法になった一つの理由な気がします。

 

因みになんですが、ヒーロー活動が違法になってからも

イラスティガールは暫くヒーローとして秘密裏に仕事をしていたらしく、これも世界大戦から冷戦へ移ったことが要因なのではないかなと。あのスーパーパワーは隠密行動にうってつけすぎますもんね。

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さて、話をもどして。

シンドロームが開発したオムニドロイドというロボット。こちらのロボットは数々のヒーロー達を亡き者にしてきた最強兵器。

サラリーマン漬けの生活でお腹ポヨポヨの状態でもver.8ぐらいのオムニドロイドを破壊できるパワーと戦闘の勘があること、

バイオレットのシールドすらぶっ壊す重量を持つ*2更新版オムニドロイドの攻撃を数秒だけでも受け止め続けることができること。

これだけでもMr.インクレディブルが他のヒーローに比べ抜きん出た強さを持っていることがわかります。

 

ただし彼の真の強さはここに留まらず。

 

それを如実に表しているのが

ヘレンと子ども達が殺されたと思い(実際には生きていたが)、キレたボブがミラージュを殺そうとするシーン。

 

シンドロームに「やってみな」と煽りまで受けたにも関わらずボブは振り上げた拳を降ろします。

 

憎しみによる殺戮に意味はないとわかるレベルになるまで、どれほどの経験を彼は積んできたのか。

プロかどうかの境目ってここなのではないでしょうか。

私がボブの状況なら間違いなくミラージュを捻り殺してますもん。

きっとボブがこういった決断ができるまでにも、数え切れない修羅場をくぐってきてるんだろうし、何度もヒーロー活動のなかで人並みに後悔ややり切れなさとか感じてたんではないだろうかと思う。

 

ヘレンと子ども達が死んだのも自分にだって非があったとそこで思える(たぶん)のが凄い。

 

でも家族にこのままでは危害が及ぶと判断したら即座にコロスモードになれるところは彼のおっかない一面。ヒーローも聖人ではないということですね。

イラスティガールは逆で悪人であっても殺そうとはしない――法の裁きに委ねようとするのがまたいい対比。

まあ、執着心を拗らせたシンドローム

(間違いかどうかは置いといて)自分の正義を貫こうとしたスクリーンスレイヴァーだとまた危険度が異なるからというのもあるかもしれませんが。

 

フロゾンはどうなのかなあ。彼はクールぶってるけど、意外と情がありそう。殺したと見せかけて逃がしてあげるとか急所外すタイプな気がする。

 

とまあ、ここまで書いてきて

この考察自体、そんな設定某有名ヒーロー映画や少年ジャンプ系で散々擦られてるやんって感じなのですが・・・

 

それでも新鮮味を感じる面白さがあるのは演出力とそれに伴う作画力なんですよね間違いなく。

 

製作風景を見ていると、キャラクターの少しの挙動――身体の向きとか肩の位置まで細かく指定が入っています。

 

こういう理解不能なレベルで拘れるのがアニメのいいところ。

実写でやろうとすると俳優さんが壊れてしまいますね。

 

ディズニーのいいとこって本来こういうとこだったんだよなと感じたのは私だけではないはず。

ストーリー自体に捻りはない――むしろ元あるものを流用してるけど、音楽、世界観、キャラの動き・・・のみならず動植物や無機質なものの動きまで、それら1カット1カットが生きてるようで芸術的でしたね(過去形)

 

最近のはピクサー含め『トイ・ストーリー4』以降観れてませんが、そもそもあらすじ見るだけで話が政治的でつまらんし、何よりお金のニオイがキツくて・・・。

 

こういうディズニーへのメタ的ディスりが「昔は良かったですねえ」というモブおじいちゃんのセリフに詰まってるわけですね。

しかも声優がナイン・オールドメンと呼ばれたディズニー伝説のアニメーターのお二人。完全に確信犯ですよ。

 

まあでも昨今の窮屈感ある傾向はディズニーに限りませんけどね。最近の日本のアニメも――ジブリ全盛期(千と千尋~)世代からすると何だか味気(捻り)無く感じてはおります。

 

 

 

ふー、少しグチグチしてしまいました。

 

 

最後に『インクレディブルファミリー』の一押しシーン。

映画館へパー家全員で送ってもらうことになったトニーとバイオレット。

そこでトニーが「君んとこの家族仲いいんだね」と言ったことに対し、

バイオレットが「そうかな、そうかも」と言うセリフが凄く好きです。

ここに来るまで紆余曲折だったバイオレットの貴重な素直シーン。

 

*1:スクリーンスレイヴァーがTVジャックをしたため

*2:後にも先にもバイオレットのシールドが壊される場面はない

近況

お久しぶりです。

前回の記事が4月20日で止まっており、早すぎる時の流れを痛感しています。年齢を教えてくださいと言われて「あれ?30だっけ?31だっけ?」と一瞬混乱することも出てきました。そら書きたいことも溜まっていく――なんなら塩漬け状態――よね。

 

 

 

先日はちょこちょこ勉強していた簿記の試験*1が終わり、帰り道に本を2冊買ってカフェで少しその本を読んで、そして今こうしてブログを書いて・・・と息子から離れてのお久しぶりぶりまった~りタイムです。

 

ワンオペはキツいですね。朝起きてから夜寝るまで一緒という状態は身体は元気だとしてもメンタル面が持ちません。

大きな要因は3歳になってから息子の発達スピードが急上昇し、言葉も突然2語文が話せるようになったり(でんしゃ きたとかそのレベルではありますが)、それに伴ってか要求や主張の度合いも1,2歳のときより強いこと。

そしてやってきました。トイレトレーニング※尚現在一時中断中。

正直毎日怒らないときがないぐらいです。

 

料理も手伝ってくれるのはいいですが、危ないことも興味があればやりたがって「ヤメロ」と制止しても聞く耳持たず。

「僕がやるんじゃい!」と私の手を振り払ったり身体を押し出したりして抵抗。

結果包丁で手を切ったり、フライパン触ってしまって火傷をしたこともあります。

「大丈夫?」と言いつつも脳内では(だから言わんこっちゃない)とブチギレております。

私はいつになったらニョキニョキ生えたツノを仕舞えるのでしょうか。

 

 

勉強に関しては時間の捻出が大変で。育児が上記の状態でアップアップしており、

正直今じゃなかった感は否めない。

 

 

 

しかも今回の試験、苦手なタイプの問題*2がドーン!ドーン!立て続けにヘビーボリュームで出題されて、ページめくりながら「うわまたお前かよ」ってこれまたイライラしながら解いてました。

しかも応用バリバリに効かせてきてるのがまたもっと腹立つ。

 

 

 

私ほんとに最近怒ってばっかりで、更年期とかどうなるんだろうかと一抹の不安(;´Д`)

 

 

とりあえず、試験の件は切り替えて不合格であろう3級はもうすっ飛ばして、2級の勉強に入ろうかと思っております。

資格を生かした仕事につきたいというより、お金の勉強をしておきたいというだけでしたので。(そもそも私にお金を扱わせたら大変なことになるゼ?家計簿でヒイヒイしてるんだゼ?)

今日2級のテキスト買ったと思ったらただの問題集で、自分の目つくづく使えねーと思うことn回目。

 

 

息子は秋口あたりにプレ幼稚園へ通わせることを考えているので、1人時間で映画観ようか本読もうか勉強しようかとかワクワク感もありますが、いなかったらいなかったで少し寂しさも感じそうです。

それでも一緒にいると優しくなれないことのほうが多い母なのでございます。

 

 

ただ、息子の成長っぷりはほんとに目覚ましかったのでまた別で記事しますね・・・きっと・・・。

 

 

 

*1:9割不合格と思われ・・・

*2:総勘定元帳の穴埋め

レミーのおいしいレストラン ――レミーとニャースの境遇が一緒だったってハナシ

我が家の息子、エンドレス『Mr.インクレディブル』シリーズから移行しまして、今は『カーズ』にドハマリ中。

 

 

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そしてほとんどセリフ空で言えてしまうほど、インクレディブル漬けだった私。

観れば観るほど作品への好感度が上がっていき、サントラまで買ってしまいました。*1

 

 

 

さて『Mr.インクレディブル』シリーズと同じ監督作品の『レミーのおいしいレストラン』

公開当時の評判としては(あくまで私の周り)

「ひたすらネズミが汚い」というネガティブ勢が圧倒的に多く(というかその感想しか聞かなかった)、気にはなってたのですが劇場へは観に行かなかったのです。

 

なのですが、この歳で初めて『レミー~』を観まして・・・

 

 

 

泣きました。

感動の涙です。

料理評論家のイーゴが幼少期を思い出したあのシーン。

あそこが私には駄目でした。勝手に涙がハラハラリ・・・。

 

 

「誰でも名シェフ」

このフレーズ自体がひとつの伏線。ネタバレになってもアレなのでこれ以上は書きません。

 

 

Mr.インクレディブル』シリーズでも感じてましたが、ブラッド・バード監督の描く家族像がすごい良いとこついてるなと思う。

夫と妻、親と子。それぞれの微妙なすれ違い。お互い正しいことを主張するからこそ諍いが起きたり。でもちょっとしたことで認め合えたり。

 

お手本の家族像ではなく、現実的で理想的な家族。でも実際はなかなかこうも上手く分かりあえることはないですが。

 

 

ただ、「子どもをいかに大切に思っているか」というのは痛いほど伝わる。

この思いはきっとどの親も本物なんだよなと思えます。

 

 

ストーリーの構成も見事としか言いようがなくて、エピソードの取捨選択が上手い。

今回の場合だと五つ星の料理人グストーのバックグラウンドは殆ど謎に包まれたまま。

そこは『Mr.インクレディブル』シリーズも似ていて・・・

想像の余地が沢山あるので考察書きたいのに、最近は寝かしつけしてそのまま朝までコースになることが多いのです。

おかげで9時就寝6時起床というこれまでの人生で一番健康的な睡眠生活ができています。

 

 

話を戻しまして。

公開当時(10代ピチピチ)にもし劇場へ観に行っても、周りと同じく

「ネズミが汚い」で終わってたと思います。

 

ここなんですよね。ほんとにネズミは汚いんです。これはホント。

質感や動き、サイズ感が妙に生々しく、お世辞にも手に乗っけてモフりたい衝動には駆られないビジュアル。しかもそれが群れをなして急に出てくることもある。

実際コレットが厨房でネズミの群衆を見てえずいているシーン、「凄いわかるわあ」って思いました。

 

 

これが某でんきねずみとかああいう感じなら、もっと幅広い層にウケたかもしれませんが、たぶんココは監督のこだわりの一つもだろうと推察します。

 

可愛いビジュアルにするとレミーの苦悩がぼやけてしまうんです。

だって人間ウケのビジュアルだと愛玩としての道が確保されてしまうじゃないですか。

 

それじゃ駄目なんですよね。

レミーはどう頑張ってもドブネズミ。そこを強調したかったのではなかろうかと。

でも人間以上の料理センスがあり、人間と同じ感性を持ち得ている。

 

このどちらにも属せないとも言えるし、ある意味どちらをも超越しているとも言える存在感がアニポケニャースと似ている。

レミーも人語は理解しますしね。喋れないけど。

 

ただ、ニャースと明確に違うのは

レミーはまだ「料理人」という確固たる軸が存在したからいいものの、ニャースの場合はそれがない。

社会で活かせるものがないから、ロケット団の下っ端でジリ貧生活しているんですよね。

 

 

 

全然接点のないアニメなのに、同じテーマ性。だけど着地点がそれぞれ違うのも面白いです。

レミーの場合はネズミであり料理人(人間)。どちらも本当の自分。

ポケモンの場合――『ミュウツーの逆襲』で言うなれば本物は本物だし、コピーはコピーでそこの壁を超えることはない。でも本物だってコピーだって「みんな生きてる」

それだけで充分ではないか。

 

 

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国が違っても抱える苦悩自体は同じなのだろうなと思います。アカデミー賞取ってますからね、レミーは。『ミュウツーの逆襲』も海外で1番売れた国内アニメVHSとかだったような・・・とにかくミュウツーも海外での評価は高いです。そうじゃなかったらハリウッド版の『名探偵ピカチュウ』にミュウツー出さないよね。

 

私は今は社会から一歩退いているともいえる存在だからか(働いてないという意味で)めちゃくちゃレミーに共感してしまいました。

なんならレミーのほうがよっぽどしっかりしてます。

それでもレミーはドブネズミで、私は人間なのです。

 

 

 

 

(余談)

パリディズニーランドのレミーレストランがめっちゃフランチャイズグストー味があって*2ちょっと笑ってしまいました。

そこは「あの」ラタトゥイユじゃないのか~~~。

レミーの雰囲気を味わいたいなら普通にパリ市内散策するほうが有意義かも。なんならフランスのネズミ見て「あ!レミー!」って言ってみたいなーなんて。

そもそも海外旅行自体いつ行けるか・・・未定も未定ですが・・・。

 

 

*1:ブックオフで見つけてしまった

*2:なんかアメリカンなのよね

人生って"線"なんだよなぁと思うこと続き

 

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続いて私の妹のお話を。

 

妹は私が覚えてる限り、意思表示が乏しく

――それは拘りがほとんどないとも言えますが、

 

受験の際には

私が総合学科の高校に進んだから、自身も総合学科へ。

大学も学部も私と同じところへ進学。

 

 

 

大学受験は元々母親がドラゴン桜阿部寛ばりに「国公立へ行けえ!!」と発破をかけて

こっちはラパルフェ都留

本人もそのつもりで勉強はしていたようですが・・・

ただ、どこでもなんでもいいから国公立ってのはどうも気になる。

本人にほんとにその進路で大丈夫なのかと聞いても

「まあ国公立やし(?)」

「お母さんが言うてるし・・・」

しか返ってこない。

 

受験って子ども側の理想と親側の現実的意見を擦り合わせて、妥協点を見つけるもんじゃないですか。

私からみていて妹は絵や工作など美術が好きそうだったので「そっち方面行ったらどうよ」と打診したりもしてみました。

 

でも「あー・・・考えとくわ」で終わりまして。

 

 

 

結局そういった美術方面には受験票を出すこともなく、国公立は全落ちし、なんとか後期の試験で私の通ってた大学に受かったわけなのです。*1

 

で、我が家の方針として大学入学と同時に一人暮らしが始まります。

 

一人暮らし=干渉のない生活ということですが、

これまで他者からの干渉ありきで生活していた人間も

自身でいろいろ選択して実行しないと駄目になりますよね。

 

教授は何の管理もしてくれませんから、「自分で」カリキュラムを組んで、「自分が」授業・テストを受けて単位認定をもらい、卒業する。

 

 

4回生までは

突然「楽器買いたくてローン組んだ」と言われた以外は順調に見えました。*2

 

 

就職先も決まってましたし、あとは卒業だけ・・・・・かと思いきや

まさかの単位が足りず、留年決定してしまいます。

 

 

当時「実は4回生の秋学期の時点で18単位残ってて・・・」と聞いた時点で

正直な話「・・・4回秋で18単位はキツイわ」とは思いました。

 

前回も言ってる「空気読めない」と同意義なのがこういうところなんです。

彼女の友人達もみんな卒業してしまって、ひとりぼっちの5回生突入。

 

周りがみんな単位とってたらもっと焦らんかい。

なんでテストなしの提出物オンリーの講義で提出物出さんのや(なぜそれで単位が貰えると?)などなど。

 

だいぶ凹んでたのでここまで言えませんでしたが。

「自分遊びすぎたんで留年すわ、アハハ」みたいな自覚があるならまだしも、「私どうしてこんなことに?」ってなるのがまたこれ「なんでやねん!」って感じ。

 

そして親も親で。

卒業できないと判明した翌日に親子で学部の進路相談室に直談判。しかも親がメインで喋るとかいう・・・・・・他人のふりしたいレベルの恥ずかしさ。

まてまてまて、そこ親いらんやろ。仮にも22の大人やぞ、という私の思い。

100人中130人は共感いただけると思います。

※もちろんそんなことしても単位認定はされません。

 

そして再就活でも親から「どこでも良いからさっさと就職するように」と言われ、ほんとにさっさと縁もゆかりもなく、興味もない介護業界に決めるという。

ほんとにそこでいいの?って何回も聞いたんですが以下略。

 

レールがなければ、自分で何かをすることができない。

レール外して、「じゃあみんなと同じように行動するのよ。」もできない。

全然違うことしてるのに、誰も指摘はしないからこれで正解だと思う。

 

こうした思考回路のせいで、当然職場でも上手くいっておらず、他責思考悪化中の現在。ひと言で言えば病んでます。

 

ひとまず私からはたらきかけて

親の言う事ハイハイ聞くのやめな

というと、今度はこっちに依存しようとする。

「ちーがーうーだーろー!」と某議員になりそうになりながら、接し方を模索中。

 

 

さて前回書いた通り、夫の家庭は昭和のスパルタ式。うちの実家もそうだったのかというと、実は真逆。ルーズもルーズだったので遅起き遅寝は普通。ファーストフード、冷食、外食、惣菜超多しの家庭。

こんなんなので、はっきり言って結婚するまでは基礎生活力に関してダメダメの実のダメ人間でした。

義実家側が聞いたら確実に発狂します。

 

なのですが、これはおおらかとも言いかえることができて、

私が小学校低学年ぐらいに一度おねしょをしたときは、

「あらまー」だけで済ましてくれたり、

数学で20点を叩き出したときも

「あらまー(コイツ塾入れなヤバいわ)」

だけで怒られた記憶はございません。

 

 

では親の逆鱗に触れる行為は何になるのかというと

「親に何も報告しないこと」でした。

 

私は思春期、「今日どうだった?」と聞かれて「別に(沢尻エリカ)」になることは日常茶飯事。*3

 

 

それによって他所の人から「〇〇ちゃん前何々してたんだってね~、すごいね〜」と子どもからではないところから情報が入るのが駄目らしい。

 

思春期なんて自分のことを親にべらべら話さないのが普通かと思いますが、それがNG。

「なんで◯◯したってこといってくれないの?!お母さん知らんくて恥かいたんやで!!!」って何回言われたかわかりません。

 

他所の人から険悪な家族という印象を持たれたくなかったんでしょうが、

「言ってくれなくて悲しかった」とかじゃなくて「恥かいたんやで」って・・・

当時私からすると圧倒的

 

 

SHI☆RA☆N☆GA☆NA

 

 

 

 

 

 

基本的に全く非なる我が家と義実家ですが、大きな共通点はコレですね。

 

他人からの評価を気にして、理想の子ども像に当てはめようとする。

 

双方とも別に億万長者になってほしいとか、人から一目置かれてほしいとかそんな高望みはしてなくて、

普通の大人にしたかったんだと思います。

普通に働いてお金稼いで、できれば結婚して、子ども産んでみんなでハッピー。みたいな。

 

でもこれも結局は親の都合なわけで、

経済力をつけることを目標にして子育てをすると、どこかにひずみが生まれます。(略)

お金があっても、自分1人では生きられないのです。

 

 

妹は留年こそしましたが、

大人の思うちゃんとした会社でいわゆる「普通の社会人」をすることはできています。

お金に困ってるフシもない。

介護業界であれば、今後食いっぱぐれることはないでしょう。

 

では彼女が自立した大人の女性か?と聞かれれば――私が言うのも烏滸がましいですがそれは間違いなくNOなんです。

やはり依存体質が、今も大きすぎるネックになっている。

妹から職場の話だけ聞いていても、仕事に対する姿勢があまり真摯とは言えないし、

本人は全くその自覚もない。

ちゃんと稼いではいるけど確かに歪みがあるんです。

 

妹自身の本当にしたいことはなんなのか。

自分だけの「道」をアラサーになって初めて開拓しなければならない。

当然長期戦で、結局最期までこのままの可能性も十分あり得る。

 

 

なので、これから私達親は「社会人にすること」を目標に子育てをするのではなく、

いかにして、「その子だけの何か」を見つけていかないと駄目なのだろうな。

 

周りと同じ様にできるならそれでいいし、違うなら違うでそれは特別だと思えばいい。

でもそういう考え方するの死ぬほど難しいんですけどね。私も一生葛藤してる気がする。

 

 

 

つい熱くなって長々書いてしまいました。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

「反抗期がない子=いい子ではない」『誤解だらけの子育て』の著者、小児脳科学者・成田奈緒子先生に聞く(たまひよONLINE) - Yahoo!ニュース

 

 

 

 

 

*1:私はしがない私立文系

*2:ま、学生ですから。もちろん完済済み

*3:妹は「今日はどうだった?」とか聞かれてもちゃんと日々の出来事を報告してました

人生って"線"なんだよなぁと思うこと

 

長々書いていきます。お暇つぶしにぜひ(*^^*)

 

news.yahoo.co.jp

 

興味深い記事を発見。

 

 

うちの夫と妹が、まさにこの記事通り反抗期がなく育ってきています。

 

まずはそれぞれの環境と経緯から。

 

夫の場合。

夫のご両親はともに高齢。当然、昭和気質の子育てで、

「周りと同じかそれ以上にできなければひどく叩かれる」といったことが物心ついたときからあったそうです。

 

妹の場合。

10代の頃、思春期真っ盛りにも関わらず、親には口答えどころか不満を言うこともめったになく、親との関係は良好な印象。それと付随して自分の意思を発することもめったにありませんでした。

 

 

恐らくなのですが、姉であるワタシには妹と違い、猛烈な反抗期がございました。*1杉咲花主演の『夜行観覧車』というドラマわかりますでしょうか?まさにアレ。

親という名の権力をこれでもかと振りかざしてくるので、抵抗してたんですよね。

若いね。

 

それを目の当たりにしていたから逆に反抗心が無くなってしまったのか。たまたま話す機会があったので、妹に聞いてみましたが、

「そうではない。親の言う通りに動いていても特に損はないから、自分で考えることがなかった」という回答でした。

とはいえ、私としては少し責任も感じております。ああやって家族間の激しい諍いを目の当たりにさせてしまうことは、悪い影響こそあれ、良いことは一つもないでしょうから。たぶんまだ自覚してないだけかなと。

 

さて、そんな二人と身近に接してきた現在の印象。

妹はそれこそ産まれたときから今までコンスタントに繋がりはありますし、夫も出会いから換算すれば7~8年の付き合いになります。

 

二人には明確な共通点があって、それは

 

 

圧倒的にその場の空気を読むのが下手。

 

 

これは「人様の都合であったり、気持ちの部分――目に見えないもの明文化されないもの――を掴んだり、感じ取ること」が苦手というか・・・最早CAN NOT――できないんです。

Yahoo記事の中で、大人になっても自分で物事を判断できない例が紹介されていますが、

これも私が二人に感じている「空気が読めない」というのと近しいと思いました。

すなわち、社会のレールに上手く乗れてない――ずっと親のレールに乗ってるままなんです。

 

これは息子への対応を見ていても顕著で、

夫は子どもに対して怒るとき「親の言うことは絶対だ!」といった物言いをします。

自分も親からそうやって育てられ、それを正しいと思うからこそ子どもにもそういった指導をしてしまう。

これに関しては私はやめてほしいと思ったので、話し合いをしたのですが

本人としても「コレはよくないのはわかってる。でも自分はこうやって育てられて今普通の社会人がてきているのだから、全く間違いとも言えないのではないか・・・という葛藤はある」と気持ちを吐露してくれました。

 

夫自身「行間を読む(要するに雰囲気を掴む)の苦手なんだよね・・・」と自覚はあるみたいで、それって「人の気持ちを理解しようとする機会」を奪われ続けた結果ではないかと思うのです。

それが夫自身父親になってみて、子どもに寄り添うとか気持ちを汲み取るではなく、親の言う通りに動かなければならないという思考に最初に行き着いてしまう原因かなと。

 

映画の楽しみ方ひとつとってもそのクセが出てたりもします。

 

パイレーツ・オブ・カリビアン』をひとつ例に取ってみます。

夫はこの作品、「おもしろくない、登場人物がみんな嫌い」と言います。なのですが船の構造や設定、ガジェットなどの細かい点はよく覚えていて、ブラックパール号は一番速い船だけど、ホニャララ号はホニャホニャのホニャで・・・みたいにとにかく私からすればワケワカメってなるぐらい"船の設定は"好き。

 

私の場合――『パイレーツ~』に限りませんが、登場人物の掛け合いに人間味を感じたいタイプ。胡散臭いのが逆に良いというか。*2海賊だからこその騙し騙され合い。もはやジャック・スパロウが一番真っ当なのでは?とすら思わせる――ある意味での人間臭さがリアルで「共感」や「感情移入」ができる。

 

でも、この急に手のひらをくるりんするようなのが夫は駄目らしい。良い人間なら良い人間のままで。悪い人間は悪い人間のままでいないと、作品上の矛盾になって「トータルつまらない話」になる。

 

私からするといやいや逆でしょだから面白いんでしょ?ってなるのですが、恐らくこれも「何かしらの正しい人間像」を刷り込まれてきてるからだろうなと思いました。『パイレーツ~』に限らずどの作品でもこの傾向が見られるので。

要するに、0と1でしか物事が見れない。数字や理論で示せないものは理解ができない。

 

機械も人間も同じと考えている・・・というと言い過ぎですが、まあそういう節はあるんですよね。

昔よりはマシになりましたが。

 

 

このような対人間生活において0,1――二進数的に生きていこうとすると実生活上矛盾が生じてしまうのがわかりますでしょうか?

 

これは我が家でよくある光景です。夫は運転中、歩行者でも原付きでも誰でも気に食わないとしょっちゅう文句を言います。いままでワタクシいろんな人に幾度となく車に乗っけてもらう機会はありましたが、そもそも文句を言いながら運転するタイプは夫が初めてで、ちょっと最初は引いたのを覚えています。

やれ原付きのスピードが遅くて邪魔だの、横断歩道のないところ渡るなだの、急に割り込んできやがってだのもうほんとに煩かった。でも彼からすればマナー違反やルール違反が許せなかったんですね。

ですが、自分が歩行者側になるとあら不思議。

普通に車道歩くし、信号のない横断歩道とか左右確認しないで渡ろうとして引かれかけてましたからね。「子どもいるのにやめろよクソが」という殺意とも言える感情をなんとかオブラートに包み伝えたことは一度や二度ではない・・・というか何回言っても暖簾に腕押し感。

 

他にも事例がいっぱいあるのですが、きりがないのでまた機会があれば記事にしますね(笑

 

これもその場その場のルールやマナーに従うとこうなるんですよね。

運転者側のときは、車道に飛び出してくる歩行者はルール違反だけど、逆の立場になると歩行者優先の原則が働く。

 

 

幼い頃から社会常識やルールやマナーの類にものすごくシビアに、ご両親ともその都度その都度厳しく躾けられた結果なのでしょう。

 

これが逆に彼の行動規範に矛盾を生じさせているんですよね。

今は本人も割とそこを気にしてるとは思います。

その場に親はいないけど親の影響が多大に出まくっている。

息子が産まれる前は、何かあれば実家に帰って、1週間ぐらいゆっくりして帰宅していたのが、息子が産まれてから――特に最近はGWと盆正月に一泊する程度になりました。なんなら今年は盆は帰らなくてもいいんじゃない?とまで言うように。

「そんなに帰っても・・・ねえ?(しょうがないでしょ?というニュアンス)」と言っていましたが、

これって親の依存から脱却しようと彼の中で戦っているんじゃないかなという妻目線。ま、あくまで想像ですが。

 

だからこそ

たとえばお弁当を買ったとき、「お金があるからお弁当が買えるんだよ。お金がなかったら買えないね! お金って大切だね」と教えるのではなく、「このお弁当はだれが作ってくれているのかな?  ミニトマトは、農家の人が作ってくれているんだよ。卵焼きは、にわとりを育てている人がいるから食べられるね」と教えてあげてほしいと思います。

社会はそうして回っているのです。自分1人では生きられないということを、幼児期から教えてほしいと思います。

という部分に非常に納得させられました。

 

人生は何事も線である――何事も繋がりがあると考えれば、

息子はまだ人生始まったばかりなので・・・彼自身にはなんの心配も不要です。

夫のほうがいろんな意味で黄色信号が出とります・・・。

仕事では年数が上がるにつれて、対人関係がのウエイトが重くなってきますし(三十代入ってから急にそういう類の愚痴を聞くようになったので)、

子育ては未だに力(親の権力)でどうにかしようすることが多いので、そこに関しては、もう一歩意識改革をさせたいところではあります。

 

夫は――私も他人事ではありませんが、これまで通ってきた線とこれから通るであろう線、これらを比較検討しつつ人生を歩んでいく段階に入ったんだなと実感しました。

子どもがいると特にそういうことを考えてしまいますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここまでいろいろ書きましたが・・・決して夫のことを貶めようとしているわけではないんですよ。

彼の性格が悪いとか捻くれてるとかそういうことではないのです。むしろそういう性格に助けられたことも数え切れないほどあります。

 

家庭のことだって、できる範囲で手伝おうとしてくれますし、何か息子のことで話し合いをするときにも私の意見を優先的に聞き入れてくれますしね。

頑固とはちょっと違うというか・・・ちゃんと柔軟な考え方もできるんですよ。

 

 

 

あくまでYahoo記事の内容と身内の事例が一致していて驚いたって話を長々書いてるだけなのでね。「おっとのかんさつにっき」とかそんな感じで捉えていただけると幸いです。

 

長くなったので妹編は後日また記事に。妹も夫とは違う意味でのクセ者なので面白いです。

 

 

*1:壁に穴開けたりとかね

*2:とはいえ、ここしばらくは見てないので記憶が・・・(^^;