今日いつものように息子と公園に遊びにいったときのこと。
公園にはイチョウの樹が植わっててそこら中に銀杏の実が落ちている。
息子は銀杏が大好きで、見つけ次第拾って投げたり並べたり潰したりして遊んでいる。
今日もそこでいつものように遊んでいたら、上品なおばさま方2人に声をかけられた。
「何をされているのかしら?」
私は内心ギクッとした。
「こんなちっちゃい子に銀杏なんか触らせたら駄目よ。手がかぶれるわよ」
そう突っ込まれると思ったからだ。
いや、リスクは承知なのだが、彼の知的好奇心を妨げなければならないほどか、というとそこまでする必要はない気がしていたから。
誤魔化そうかとも思ったが、どう見ても銀杏をポイポイしているのでどうしようもない。
素直に
「銀杏で遊んでいるんです」と答えた。
すると
「あら素敵。今はちょうど時期ですからね。私達もこの間銀杏拾いをしたのよ」
と返ってきた。
そこから銀杏はこういう料理が美味しいとか、地方ではこんな風に食べるところもあるとかいろいろ話してくださった。
予想と違い、肯定的な反応にホッとした。
そこから少し話も弾んだところで、おばさまがカバンをゴソゴソとしてポストカードを私にくれた。
おばさまはキリスト教信者らしい。
他にもポストカードに種類はあるらしいが食べ物についてたくさん話したのでこれにしたといっていた。
そのまま私たちは別れた。宗教については何も言われていない。勧誘どころか、自分が何教だ、とかも言わなかった。
ここでもうひとつ思い出したことがある。
大学生の頃、友人と本場のクリスマスを味わってみたいという、ちゃちな理由から女二人でクリスマスに近所の教会を訪れたことがある。
何をしたかというと、紙芝居でキリスト誕生のお話があり、讃美歌(?)を歌い、ろうそくで火を点々をつけて、終わりだ。(10年近く前のことなのでうろ覚えだが)
帰るときにはビーズで出来た天使のマスコットが貰えた。
キリスト誕生の話はちゃらんぽらんの大学生にも響くほどには素敵な話だった。
「キリスト誕生が愛されてきているように、人というのは誰しも愛されて産まれてくる」というような感じだったと思う。
(これもうろ覚えで申し訳ないですが汗)
要するにあまり宗教宗教と押し付ける感じではなかった。
なおそこでも勧誘などはなかった。「なにか買え」といったこともない。
宗教というのは本来、俗物から離して安心安堵感を与えるものだ。
そしてその教えを更に世の中へ広めるものためのものだ。
少なくとも公園でのおばさま方やクリスマスの教会ではそうだった。
なにか買わせたり、ましてや政治家と仲良くするためのツールではない。
苦しいときや佳境に立たされたときに宗教に依存すること自体は案外当たり前だったりする。
厄払いとか、〜祈願とかね。
つまり厄払い程度の献金ならまだしも、破滅させるほど貢がせているのは、宗教にハマるひとが問題なのではなく、布教する側に問題がある。
街歩いてて急に「あなたの運勢視てあげます」とか「このブレスレット買ったら幸運が舞い込みます」って
そんな宗教あるかーい!ですよ。
これが霊感商法なんですね。
これは宗教の皮を被ったビジネスであり、宗教にはカテゴライズされない。
なんならネガキャンになっている分、宗教は被害者とも言える。
なにが言いたいかといいますと、
宗教自体には全く問題はないし、そうやって拠り所を作るのは悪いことでもない。
まあ私無神論者なんですけどね←
最近のニュースみてて宗教2世、とかって出てくると、こんなのに宗教って使うんじゃないよ、って思っちゃう
(しょうがないよね、国がズボラ認証しちゃったんだもん)
/ 神様を悪用する子は皆しまっちゃおうねえ \
そんなことを思った朝の公園でした。
ではでは。