前作『ミュウツーの逆襲』を観て大号泣の私でしたが、今回も例に漏れず泣いてしまいました。
デジタルとアナログの総力を結集
『ミュウツー~』では圧倒的な脚本力というように感想を書きましたが、今作になると作画も大幅なスケールアップ。
特に石の質感。これはぶっちゃけジブリにも引けを取らんですよ。それぐらいタッチが綺麗。ジラルダンの空中要塞(?)もデカくて細かくて、豪勢なCGだった。
火の島へ向かうときの荒波の描写や石段を船で上がっていくところなどアドベンチャー要素も増々になっていて見やすさ、楽しみやすさとしては今回が格段に上。それゆえ脚本は前回同様テーマ性の強い内容にも関わらず視覚的な見応え度は全く引けを取らず。『ミュウツー~』は何だか余韻が切なくて何回も見ようという気にならなかったけど『ルギア~』は2、3回観てしまいました。興行収入が前作より低いのは解せませぬ・・・。
イケボ過ぎたジラルダン
これは完全に私の性癖の類になります。もう最早あの声が私にとっての慰めの音色・・・ぐらい鹿賀丈史さんの声がクリティカルヒットしました。私もともと小野Dとか低音特化の声は大好物ですが、鹿賀さんの声は低いだけじゃなくて深い。今作のヴィランとも言えるジラルダンは最後の最後まで大人の余裕を醸しながら、そのコレクターとしての信念は全く揺らぐことはなかった。サトシたちにせっかく捕まえたファイヤー・サンダーを勝手に逃されても、また自身の要塞が攻撃されて落とされても全く物怖じしない。一瞬動揺はするけれど、そんなもの彼にとっては砂埃がふわりと舞ったようなもの。そう、そんじょそこらの凡人とは違うのです。そんな彼のメンタリティが全部、声に現れている。私にとって鹿賀さん以外にあの声は有りえません。
気品と大胆さを兼ね備えた、それでいて静かな海のように落ち着いたずっしりと重厚感のあるお声。
ぜひ国宝にしていただきたいところです(真顔)
前作のミュウツーである市川正親さんもそうなんですが、ミュージカル俳優の方って声自体が生き物って感じがして凄く惹き込まれる。
自分の世界と相手の世界
今作のテーマについて。
『ミュウツーの逆襲』は「わたしは誰だ」というシンプルな問いかけが印象的でした。最早これは詩の領域。
今作はキャラクター各々の「世界」が色のように見え、それらが重なり混ぜられた、色彩豊かな絵画といった印象。
ルギアは「誰にでも自分だけの世界があって、それを誰かが勝手に侵していい権利はない」
とサトシに言います。*1
この「世界」という表現がまた絶妙で、誰もが持っている「役割」とも取れるし、自分の帰るべき「巣」のような意味合いにもとれる。一概に「コレ!」と断定できるものではなく――ありとあらゆるものが当てはまり、持っているというような――なんともフワフワした「なにか」なんですよね。
この難しすぎるテーマを上手く演出してくれているのが、ファイヤー・サンダー・フリーザーの御三方。
彼らにはそれぞれ自分の島がある。ジラルダンのコレクション目的の介入により、3者間で島の乗っ取り合いが勃発。もちろん「話せばわかる」みたいな穏やかなもんではなく、「野郎オブクラッシャー!!」*2のバチボコスタイル。
ルギア自身も争いを鎮めるために現れたというより、
ジラルダンがファイヤー・サンダーが捕獲したことにより、海流が乱れたのを察知(異変を感じた)流れで現れただけ(世界の危機におけるキーキャラではありますが)
伝承で神々しくされているけれど、それぞれが自分の世界を守るために、なるべくしてなっているだけ。
ここが前作との「生きているだけでいいという全肯定の意思」とは違う部分だなと思いました。人間に限らず万物なんでも他者が触ったり入ってはいけないモノやコトがあり、それが侵されれば「拒絶し自分の世界を守る」そういうもんだよなと。この「自分の世界」があるということ。当たり前過ぎて気づいてなかったなあ。
ルギアのセリフで一番印象的だったのが
「私が現れないことが、人間のためだ」というもの。
これはサトシたちがルギアと共にファイヤー・サンダー・フリーザーの争いを鎮圧もとい世界の破滅から救った後、ルギアが海の底へ帰っていく際に放った言葉。
今作では「海の神」とされていたルギア。実際のところは彼もただのポケモンに過ぎません。それはファイヤー・サンダー・フリーザーも同じ。
今回の騒動はルギアオンリーでは鎮めることが出来なかった(出来ないようになっている)というのが憎い設定。操り人に該当するサトシがたまたま島に来ていて、ちょっと惰性もあったとはいえ島のしきたりがずっと残っていたことも必要なファクターだった。
このセリフのニュアンスとしては「今回はたまたま騒動が落ち着いただけ」という感じですかね。
今後島のしきたりが存続するのかもわからないし、世界の危機がまた訪れた際に適当な操り人が現れる保証もない。なんならルギア達の力やしきたりを悪用する輩だって出てくるかもしれない。
次同様のことが起きても今回と同じ結果に落ち着くのかは、そのときになってみないとわからない。
だからこそルギアが現れるような事態は避けたほうがいいよ、というのがルギアの思う人間との適切な関係ということ。ちょっぴり切ないですけど、これもルギアにはルギア世界があり、その世界を守る為に人間(操り人)が必要。しかし、だからといって手の届く距離感が必ずしも正しいとは限らんのですよね。
うーむ、深い、難しい。
このルギア退場シーンでだいぶウルウルしてしまっていた私でしたが、最後サトシのママの登場シーンでもう涙腺決壊。
サトシが世界の破滅を救ったと聞いたママ。「それがなんなの?!」と一蹴。
「サトシの世界がなくなったらママの世界もなくなるのよ!」と。
↑ここでめちゃくちゃ泣いた私。自分の子どもと重ねてしまうよね。母としては一言一句同意。
ここで大事なのは
自分の身より世界を救うを救うことを優先するのは間違いだ、ということがママは言いたいのではなくて、他者の世界を自分事のように考える人もいるということ。それぐらいあなたは大切な存在だと言うこと。
そう、今作総じて「何が正しくて何が間違っている」という訓戒的な話では決してないのですよ。
ゆえに「世界」とはなんなのかの定義もない、ということ。
ママのこの重い思いをサトシはわかっているのかわかってないのかちょっとポヤっとした反応とか・・・この微妙な親子の距離感がめちゃめちゃ刺さりました。
ママの「あなたがなりたいものは何なの?」という問いかけに対して、「俺はポケモンマスターになる」というところに落ち着いたのも、劇場版から静かに日常が戻ってきた感じがして良かったです。
そしてそれがサトシの持つ「世界」だよなと。
✓補足
ちなみに英語版だと「私が現れないことが、人間のためだ」のセリフは
「お前は役目を果たした」
となっているんです。*3
全然違っておもしろいですよね。日本の感覚とは違って考え方が能動的。世界の命運がかかっているのだから誰かがやらなきゃ(=俺がやる!)みたいな。向こうではよく、困難は「神の試練」ともいうのでこの台詞になるのもまあ、わかります。向こうの訳だとルギアが文字通りに「神様」としての役割を担ったモンスターパニック感のほうが強くなる不思議。