私の大好きな漫画の一つ『ガラスの仮面』。
読んでいて、この作品の世界観が「能楽*1」に通づるところがあるなぁと感じていました。
「紅天女」とか諸にそんな感じですし。
そんなわけで「いつか能楽に触れてみたい」とぼんやり考えていたところ
7/29国立能楽堂で「親子で楽しむ狂言の会」なるものがあるとHPで発見。
(8/5に能の会もありましたがこちらはすでに満席)
18歳以下であれば子どもは何歳でも良さそうでしたので、「これ幸い、
この機を逃してはならぬ」と旦那へ即提案。
だいぶ渋られましたが(まあ今どき興味あるひとのほうが少ないよね)なんとかOK。
親子3人で行って参りました。
まず、能楽堂に入ってお出迎えしてくれたのは、狂言で使うお面達。
お面といえば、屋台でよく見るプラスチック製のアレのイメージが定着していたせいなのか、昔ながらの木彫りの精巧さにマジマジと見入ってしまいました。
っていうか全然一緒にしてはいけないんですけどね(汗)
本物じゃないけど本物のよう。目の出っ張り方、シワの付き方・・・ほら、乙のお面なんて自然な部分にテカリが入ってるでしょ?
木を彫って、上に胡粉と膠を重ねているそうですが、「そうやって出来ている」というのがわからないほど「面」というか、「顔」なんですよね。
ネットで能面や狂言面の一覧見てるとなんか怖いですもん。
職人技って凄い。こわい。
劇場内に入ると、こじんまりしてるけど、立派な能舞台が。席数もそんなに多くはありません。なので私達が取った席は揚幕の近くでしたが、鑑賞していて、見辛いなどの支障は一切ありませんでした。
開演すると、切戸口から前説のおじいちゃんが登場。正座をしての丁寧なご挨拶。
なんとこの方、能楽に従事されて80年なんだとか。わぁお、物凄いベテラン。
きっと私がこれから能楽を初めたとて、足元にも及ばないんだろうな。
前説では
・能楽の歴史
・鏡板の二本松について
・巷で言われる「芸能」と「能楽」の違い
・これから上演される狂言のあらすじ
等々、興味溢れるお話が聞けました。
能楽が今のカタチになったのは室町時代から。約700年の歴史があります。天下人である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康も「能楽」をえらく好み、保護していたとか。
そして「芸能」と「能楽」の違い。
「能楽」は「古典芸能」と言われていますが、「芸能」ではなく、「古典芸術」なのだとおっしゃいました。
この意味は後々実感を以てわかるのですが、
「芸能」というのはお客様を楽しませるのが本分。
「古典芸術(能楽)」はお客様を楽しませることはもちろん、そこから更に先にある「目的」を見据えているのだとか。
その「目的」というのは・・・
きっと観ればわかります(説明放棄)
さて、前説が終わりますと、いよいよ本編が始まります。
今回私達が鑑賞した狂言は2演目。
- 二人大名
- 菌(くさびら)
狂言ってどんなの?と聞くと大体返ってくるのが
「コントみたいなものかな」ということ
当然私達のイメージする「コント」とは違いますが、「コント」と例えられるのも何となくわかるんです。
いわゆる笑わせるための「型」があるという点でコントも狂言も同じだなと思ったんですよね。
例えばアンジャッシュだったら、大島さん(児嶋だよ!!)と渡部のすれ違いとか、噛み合わない会話が様式美として可笑しいですよね。
今回の狂言で言えば、
二人大名だと
大名が通りすがりの一般人のオジサンにひたすら無理を言う → 一般人のオジサンがキレて大名に倍返し。
菌だと
庭に抜いても抜いてもキノコが生えてくるので山伏に祈祷をお願いする → キノコはむしろ増える。
といった具合。
なんとなく先は読めるけど面白いんです。堂内大爆笑でしたからね。しゃっくりしてる子いましたから。
700年前の芸事に、令和の子ども達が笑っている。
これってなんだか凄いことのように感じてきました。時空を超えたハーモニー(調和)というか。
企業のトップに登り詰めた方でも、「能楽」を嗜まれる方は多いと聞いたことがあります。*2
世代を超え、身分を超えて、惹きつけるもの。
だからこそ「芸術」なのかもしれません。
なんなら海外でも密かな人気らしいですね。
うん、何となくわかるな。
狂言って「ありのままの人間の滑稽さ」って感じがする。
肌の色も年齢も貧富も関係ない、ただただ人間としての可笑しさ。
「能楽」って人としての何かに立ち返るってことなんだと思います。
それが前述した「目的」なんじゃないかな。
では話を戻し、コントと狂言の明確な違いはというと・・・・
ズバリ!
「喋り方と動き」です。
え?そんなこと?なんて言わないでネ
狂言って話し方と動きがとても独特。
これが何とも異世界めいていて、人間が演じているのに人間じゃないような。能舞台と客席にはなにか見えない壁のようなものがあるように感じる。間違っても第4の壁を超えてくるなんてことはない、そんな感じ。
演目が始まるときもザーっと大幕が上がるとかではなく、揚幕や切戸口からヌル~っと出てくるんです、演者が。
「あ、いつのまにか出てきてた」みたいな。
おもしろいのが、キノコ役を演じる人がいるんです。植物の役柄なんて現代の演劇ではあるのかな?基本あり得ませんよね。
しかも凄いのがちゃんとキノコに「見える」んです。別に衣装が、とかじゃなくて、それこそ「動き」が人外めいているから(もちろん褒め言葉ですからね!)
これこそ「今の演じ方」と違う点で、
今ってどんなカメレオン俳優と言われている方でもその俳優さんの「個性」って消しきれていないときってありますよね?
いや、逆に「あ!」と思わせる演技をしたとしても「〇〇さんってこんな演技もできるのね~」ってなりません?あくまで先行してるのは「その俳優」であって役柄ではない。
狂言は(恐らく能も)一度自分の個性はドロドロに溶かしてしてしまって、役柄という型にそれを流し込んでいるようなイメージ。
すなわち誰がやっても演目のクオリティーは一定になるんだろうなと思うんです。
ただ、そのクオリティは見ていてゾゾっとするぐらい一挙手一投足計算されているみたいに見える。
この感覚は演者の「動」の部分より「静」の部分を見ているとよくわかります。
止まっているときは「呼吸してるのかな?」ってぐらいピタッと止まるんです。そして演者同士でもこのピタッとする点が合わさっている。そして表情らしい表情もない。
でもロボットっぽいのかというと全然そんなことはなくて。確実に彼らは「人間」を演じているのです。
そして、個性がないからこそ「人間以外のもの」にまで役の幅が広がる。
観終わったあとは、なんとも不思議な気持ち。
人間の滑稽さや愚かさももちろんながら、なぜかそこから愛おしさのような感情も湧いてくるんです。
700年も前に出来たお話のはずなのに、古臭さは感じない。むしろ「同じなんだ」と感じる安心感。
自分も引っ括めて
「そうそう、人間ってこういうとこあるよね」みたいな。
能楽堂を出てからも少し時間がありましたので、
折角だしと、渋谷のスクランブル交差点でも歩いてみることにしました。
人混み大嫌い人間なのに、そのときは人間に塗れてもいいかなって思ったんですよね。いろんな人間が見れるし。
家族連れ・カメラ回してる海外旅行客・布切れみたいな服でブラジャーやパンティがモロ見えのお姉さん(最近のファッションって奇抜ダァ)、バーンと入れ墨入ったおにいさん、この日は隅田川花火大会でしたので浴衣姿のカップルも沢山見かけました。
その瞬間はそれを見ているのが「楽しい」と思っている自分がいました。
この記事を書いている今は、もうスクランブル交差点もソコに行くまでの満員電車もゴメンですが。
そしてウチのムスコくんはというと・・・
実は開演してからぐっすり夢の中。公演が終わってからお目覚めでした(笑)
まだ2歳児には早かったかな。
いつか機会があればもう一度。