もー観終わったあと大変でした。号泣&号泣で。
午前中の暇に観て、泣きながらお昼ごはん準備して、泣きながら食べました。普段と違う母の様子にさぞムスコも困惑したことでしょう。
スーパー本気すぎる脚本
『ミュウツーの逆襲』は人生で初めての観た映画で私にとって思い出深い作品。
先日konma08さん(お子さんとのやり取りがとっても楽しいブログ)が企画された「初めて〇〇した映画」アンケート。
こちらで回答したものを抜粋しますと、
当時まだ小学校にも入学していなかったかもしれません。
ほぼほぼ掠れていた記憶ですが、オープニングタイトル(テテテンテテテンテテテンテテテンのBGM)で圧倒され、沢山のポケモンやバトルにワクワクして、ミュウの可愛さに癒やされて(性格どうのは置いといて)アニメ放送とは、やっぱり規模が違うなあと目をキラキラさせて観ていた記憶。当時一緒に付いて来てくれたのは母親でしたが、母は横で号泣。当時の私としては泣く要素がどこなのか全然わかりませんでしたが、今観ればその気持が理解できるかも。機会あれば再鑑賞したいですね(´◠ω◠`)
当時、子どもながらにとても楽しい映画体験ではありましたが、大人になって気づいたこと。
「なんのために産まれてきたのか」という非常に難しいテーマを上映時間85分に収めきるという*1
ストーリーテリング力がズバ抜けすぎとるんですね・・・。
もうね、ストーリーの圧(すなわちミュウツーの圧)が強いのよ。
ちゃんとドでかい軸がしっかり入っていて、全然遊びがないの。没入感半端ない。
おかげさまでサトシの存在感はだいぶ薄い。主人公なのに。
一箇所ストーリー上とても重要な役割は担いますが・・・・そこだけです。それぐらいミュウツーというテーマに全員が包含されてしまっているのですね。
アニメに限った話ではないですが、映像作品っていかに視覚情報に訴えるか――そこに製作陣の方々はウエイトを置きますよね。
例えば今回のミュウツーだって、もっと映像的に魅せようと思えばその方向に持っていけたはず。
ミュウとミュウツーの戦闘だと、もっとヒートアップさせて派手な技を繰り出させるとか、街を破壊させるとか。
そうすれば主人公活躍の大義名分も生まれますし、収まりの良い作品にはなったと思います。
にも関わらず、ミュウツーはミュウしか見てないし、主人公ですら基本傍観スタイル――というか、この二匹のバトルなんて誰も割って入れないわけで、見ることしかできなかったというのが正しい。何か状況的ラッキーパンチが起きるのでもなく、悲劇的に巻き込まれるでもなく、ただ見ることしかできない人間達。
ポケモンって怒らせると怖いんだ。自分たちって無力なんだ。
客観視するからこそ、そう思わせられる。
この作品はどちらかと言うと目で楽しむのではなく、心で味わう――詩的な感じ。
もしこの作品を我が家の棚のどこにカテゴライズするだろうと考えると、『特攻野郎Aチーム』や『M:I / ローグ・ネイション』がある映画コーナーよりも
金子みすゞ詩集やサリンジャー作品が並んでいる本棚に並べるほうがしっくりくる、そんな感じです。
「ここはどこだ。私は誰だ。なぜ私を産んだ」
ミュウツーはこの問を何度も何度も投げかけてくるわけなのですが、全然しつこくは感じない。だって人類皆いつだって抱える普遍的な悩みですから。
家庭でも学校でも会社でも、SNSの世界でだってこの問題は断ち切ることができない。
誰しも心のなかにミュウツーは存在するのではないでしょうか。
もう超がつくド直球作品。こんなのあと一つでも生きてるうちにみれるのか怪しいだろうな。結構珍しい類のアニメ映画だとは思いました。
脚本にばかりフォーカスしてしまってますが、もちろん映像としても楽しめないわけではありません、今のポケモンに比べると演出が控えめに感じるかもしれませんが。
ミュウツーのもとへ向かう際の嵐の海であったり(この嵐はミュウツーが起こしてるわけなのですがこの描写も強キャラ感があって良いです)、いろんなトレーナーのいろんなポケモンたちが見れたり*2。
ヒトデマンにゼニガメ、ちっちゃいのによく嵐の海を超えたね。*3他のトレーナーはギャラドスとかピジョットとか大型のポケモン使ってたんで余計ね。
あとはミュウの可愛らしいこと!!!*4
ポケモンを可愛らしく動かすノウハウは今のポケモンにも受け継がれてる感じしますよね。
まあ大まかな感想は、20何年前と変わらないかな。
存在意義ってなんでしょう
「ありの~ままの~♪」と歌われたところで、彼にはそもそも「自分の基盤」が存在しない。
だってミュウツーって人間から生み出されてるけど人間じゃない。かといってポケモンですよと言われてもミュウツーは世界にたった一人(匹?)しかいない。遺伝的に繋がりがあるのはミュウだけど、ミュウ自身はミュウツーに繋がりなんてそんなに感じていない。
自分の存在意義を証明するために、人は生きていると言っても過言ではない。ミュウツーの逆襲とはすなわち自身の存在を確立することと同義なんです。
だからこそ、クローンの存在意義のためオリジナルであるミュウに――また人間に戦いを挑むわけ。
クローンのポケモンたちに指示を出すミュウツーのさまは、まさにポケモントレーナー(人間)のよう。
ただ、その戦いに意味はあるのか。勝ったからって自己の存在は証明されるのか。
「オリジナルもクローンも生きている」
このセリフが「なぜ産まれてきたのか」のアンサー。
生きているから。ただそれだけ。
生きているとはどういうことか。
この世に生まれる前のミュウツーが外の世界を疑似体験する描写があります。
暖かい太陽、心地よい風、明るい月。なんてことのないコレらを感じれること。
私達は「生きる」ということがどういうことなのか産まれたときから知っている。
すなわち自分を認めるために戦う必要性はない。他人を思う涙があれば、それだけで存在意義になる。
この最初の描写がもう駄目。泣ける。
生きることをミュウツーに教えたのがクローン研究者のまだ幼い娘アイちゃん。病気かなにかで亡くなっているのですが、産まれる前のミュウツーにコレを伝えて消えていきます。アイちゃんのパパは娘をクローンでもいいから生き返らせたくてミュウツーを産み出そうとしているのですね。完全なエゴだけど、共感せざるを得ない。親なら1000%泣く描写。
物語の着地点は・・・
とはいえ、「生きているんだからお互い尊重してこうね」なんてのは綺麗事。
それを象徴しているのがラスト――ミュウツーが自身の記憶をサトシ達から消してしまうシーン。
結局のところ「戦う」って人間の本能なんじゃないか?
そして大人になるとそれを自覚しだす。大きなところで言えば戦争ですし、小さいいざこざで言えば、夫婦喧嘩とか上司との軋轢とか枚挙にいとまがない。
ただ、そうやって勝ち取ったから今があるにせよ、そういった勝者と敗者のような概念を前途ある子供たちに受け継ぎたいか?という話。
戦争に関しても積極的に伝えようとする方もいれば、口を閉ざすタイプの方もいますよね。
ミュウツーの場合は後者。彼なりの最大の思いやり。
どちらも戦いはないほうがよいというのは共通項でありますが、そうならないための責任を子どもたちが負う必要はない。
サトシ達はこれまで通り思うままに生きればいい。だってちゃんと他人(ポケモン)を思いやる心を持っているのだから。
でもきっとミュウツーのことは彼らの無意識下にちゃんと存在はしてるんだろうな。
きっとサトシ達が大人になるとき、この経験はかけがえないものになるのでしょう。
次作の『ルギア爆誕』も視聴しましたら感想書いていきます。
最近リモコンの主導権が完全にムスコに移ってしまい・・・いつ観れるかなぁ。