日がな一日主婦の趣味ブログ

本と映画とエトセトラ

夏目漱石『こころ』 ――人生の終わりを考える

ツクツクボウシの鳴き声が聞こえたり、トンボが飛んでいるのを見ると、秋の訪れを感じます。

今年の夏もなんとか乗り切れました。去年の今頃、ムスコはようやくヨチヨチしだした頃だったので、家に籠もることが多かった(と思う)のですが、

 

 

2歳児はほんと元気モリモリ!

家にいてもイタズラばっかりして、私がギャオーン怪獣になってしまうもんですからお互いの発散のため暑い中公園へ向かうことしばしば・・・。

とはいっても、公園まで5分ぐらいですし、木陰なんかは案外涼しかったりして・・・何よりこの猛暑!公園にほとんど人がいない!ほぼ貸し切りのような状態イェィ♪(└(:3」┌)┘))イェィ♪

 

いやー子どもってほんと元気なんですよ。私なんかは日陰でぼーっとしてる中、帽子もかぶらず*1お日様サンサンに浴びて砂遊びしたりするんですもん。おかげさまで日焼け止めを塗っているにも関わらず、彼のお肌は立派な小麦色に。

 

まあ健康的でいいか笑

 

 

さて、長々失礼しました。本題に参りたいと思います。

 

 

主人公である「私」の先生。

 

今ひとつ掴みどころがなく、達観したような人生観を持っているミステリアスなヒト。

とはいえ、人間皆秘密のひとつやふたつあるわけで、誰しもにミステリアスな要素がある。

 

この作品で刮目すべきは、先生が「全て」を私に話したこと。そしてそのまま命を絶ったこと。

 

それと対を成すように、「私」の父親も病気に蝕まれ、床に臥せっていく。

 

このように『こころ』では複数人の「人生の終わり」が描かれる。

 

自らの手によってひっそり逝こうとする先生と、家族に囲まれながら徐々に向こう側へ逝こうとする父。

同じ死でも終わり方は人それぞれ。

 

「死」というのはその人自身を表すものだと思う。

 

逆に言うと「生」というのは皆同一。母親の胎内から産まれる無個性でちっちゃくて非力な存在。

 

そして彼らがどんな人間だったのか――どんな人生を歩んだか――それは「死」が訪れたときのみわかるんじゃないかな。

産まれたときはどんなオトナになるか誰も予想できない。全ては「終わり」を迎えたあとの結果論。

 

 

私は孤独死を恐れる傾向はここに要因があるんじゃないかな、とも思う。

看取ってほしいという欲求、それは「私自身(私の人生)を見て」という究極の承認欲求なんじゃないかな。

 

 

「私」の父には「私」を含め子どもが3人。他親類もいる。

先生は親類とは絶縁しているし、子もいない。

 

 

なぜそうなったのか(終わりの迎え方が人それぞれなのか)は理由がある。

作中では先生の長い長い独白に全てが記されている。そこに「否」を唱えてはならない。先生にとってはそれが理由だったのだから。

 

父の死に際の様相は――言葉が乱暴かもしれないが、スタンダード・・・なんだけど、第三者的に見るとこうやって死ねるのが一番幸せなのだと思う。

 

では先生は?

先生にとって看取ってくれる一番近しい存在なのは間違いなく奥さんだけれど、

Kの件がある以上奥さんに自身の全てを開示することができない。この矛盾が死ぬに死ねなく、先生を苦しめていたんじゃないかな。

 

ある意味「私」は先生を「死」へ導いた最後のピースのような形になったけれど、

先生としてはこれでよかったんでしょう。大勢に見守られ緩やかに穏やかに寿命を迎えるより、自身を理解しようするただ一人に全てを開示して命を絶った

「もう自分という人間はこれでいい」という諦め?

いや、私は

「こんなに頑張って生きたんだ」というむしろ前向きな低意もあったような・・・どうなんでしょう(^_^;)

 

 

まあこれらは今では簡単に「都会と田舎だからね」で片付けられる問題でもあるんですが、「死」と「自己開示」・・・これは意外と切り離せない関係なのかもしれませんね。

 

私自身も子どもが産まれて少ししてから日記をつけるようになりました。

結構なんでも(気候から息子の成長記録から旦那の愚痴まで笑)記していて、ブログも私自身の一つの姿ですが、この日記はより人間味マシマシといったところ。

言うなれば、生きているうちは誰にも見られたくない代物と言えますね(アハハー☆)

これもある意味「遺書」のような役割を果たせるな、と時たま読み返しては思うのです。

 

 

 

*1:ムスコは帽子が大嫌い