ゴ、、ゴズリング、、、、
またこの人は割を食う不幸な役なんかして。ぴったりすぎて観ててツラいウオ~ン・・・。
『ブレードランナー』は初めてみたとき――デッカード刑事が乗っている車やレプリカント判別の装置、写真の解像度を上げるときのEnterキーのようなカシャカシャ音――ハイテクなのにどこか古臭い感じ。薄暗い街なのに活気のある人並み。この世界観が凄く好きな映画で、且つ2049は私の好きなゴズリングが主役なので観よう観よう、でも2時間半超えるのか・・・後回しやな・・・としていたら、プライムでの配信があと10日を切っていました。
ええい、しょうがない!と夜中に1人でひっそり鑑賞。日中はどうしても子どもがね・・・。お昼寝中に観るにしてもこの長さだと絶対途中で起きますので(汗)
結果・・・・・・・
観れてよかった・・・。すっごい良くて2回観てしまいました(いつにも増して寝不足)
『ブレードランナー2049』だけ観ても楽しめるようには出来ていますが、個人的にはこの作品を観る前に『ブレードランナー』を予習しておくことは非常にオススメしたいです。
『ブレードランナー』はあくまで世界観を楽しむもの。その土台があって初めて、2049のゴズリングが抱える自意識のお話が入りやすいと思うんですよね。
もちろん『ブレードランナー』でもレプリカントの自意識の要素は盛り込まれていますし、『ブレードランナー2049』でも世界観の構築(序盤の文字列での説明など)はありますが、比重の置き方を上手く変えているんです。
両方観てみてちょうど天秤のバランスが取れる感じといいますか。
どっちが好き?と聞かれるとすっっっっごい返答に困るやつです。
というわけで以下ネタバレありで感想を綴っていきます。
最初も言いましたがもう、とにっかくゴズリング演じるKが可哀想でね・・・・・・・。
人間に混じってブレードランナーとして働くK。『ブレードランナー』のときは地球にレプリカントが存在すること自体がタブー*1。人間と一緒に働けるようになるまで彼らの人権・地位は向上しているのかというとそうではない。
Kに対するひどい誹謗中傷。そんなことをされても意にも介さない。それは従順型のレプリカントだから?本当に何も感じてないの?その顔、何も感じて無い訳なさそうだよね。すっごい悲しそうな顔してる、気がする。
前作、今作との共通点「登場人物の心情がセリフに表れない」
『ブレードランナー』のときもそうでしたが、ロイ・バッティがなぜ終盤あのような行動に出たのか、スッパリサッパリわからない。特に明言もない。
でも考えてみれはこれは我々のいる現実もそうで、心の中をわざわざ言語化・体現化する人ってどれぐらい存在するのでしょうか。
つまりこの作品郡のキャラクター達は究極のリアルを演じていると思ったのです。感じたことを「わかるように」お出しするのではなく、ただただ事実的な行動のみをもってして、観客にキャラの心情を委ねる演出。
特にKは寡黙なタイプですから余計に分かりづらい。
ウォレス社で働くKと同じく9型のラヴに「仕事は楽しい?」と聞かれて無言。絶対楽しくはないでしょうが、辛い悲しい腹が立つ・・・こういったことも何も言わない。彼が本物の人間ならば私達もなんとなく察することができますが、彼は人間に従順型のレプリカントです。痛みも感じず、傷も糊で塞ぐ。やはり彼は人間ではないのです。
そういった設定ならば「楽しい」と返すのが正解な気もしますが、そんな風に全く見えない。シンギュラリティを起こしているのかと言うとそれも微妙。AIのジョイとの甘い時間も上司であるマダムから連絡がくればすぐさまジョイをシャットダウンする。
とはいえ見本のような従順型のラヴも楽しさというより使命感のような感じで働いているように見えます。でも彼女の思い切りの良い感じが個人的には好き。アクションもかっこよいです。
Kは愛情を感じているのか、感じたいと思っているのか。とにかく分からないことだらけなのです。ただあるのは哀愁だけ。
木製の馬の記憶が、作られた記憶ではなく、本物の記憶であったと確証するシーンでの「・・・・・・ちくしょう!!!!」
ここで彼の感情面はだいぶ揺れ動きます。激昂したシーンはここだけ。自分はレプリカントではなく人間?本当は魂が宿っていたのか?感情があったのか?この「ちくしょう」はそういった意味合いに取れました。観た瞬間はまさか激昂するとは思わなくて、喜びに涙するのかなと予想したので混乱しました(汗)
今作こういった内在化された、複雑な心を演出するのが上手なんです。
結局自分は「人間でなく本物をミスリードさせるためのレプリカント」だった、というのが判明するシーン。
ここでは役者の表情ではなく、見えるのは影だけ。どんな顔でKがこの事実を受け止めているのか。それは私達の想像力で補わなければならない。
人間とレプリカント。
本物は人間。レプリカントはどれだけ人間に近づこうとも追い越そうとも所詮は作られたもの。
ここで違いとして明言されるのが魂の有無。
でも魂ってなんだろう。精子と卵子が出会って子宮から出てくれば魂は宿るのか。
わたしは感情が備わっているならばそれはもう魂が宿った本物だと思う。
すなわち、それは「他者を慈しむ心・想う心」とも言えるんじゃないかな。
ハリソン・フォード演じるデッカード刑事にウォレスが尋ねる。「デッカードどレイチェルが結ばれ、子が産まれたのは初めからタイレル社に仕組まれたことだったんじゃないのか?」と。『ブレードランナー』にてデッカード刑事はレプリカントだったのか?と示唆するシーンがあります。今作はそこにも言及してくれました。結局のところそれはわかりません。デッカード刑事に聞いてもわからんわな。レプリカントの設計者は殺されてますから、なぜレプリカントであるレイチェルに(デッカード刑事がレプリカントだったならば彼も同様)生殖能力が備わったのか知るものは誰もいませんね。
ただ、デッカード刑事が言ったこと
「俺は本物を知っている」
デッカード刑事は娘の安全を思い、他人として生きていくことを決意した。自身が例えレプリカントであったとしてもこの想いは間違いなく「本物」
どっちが人間だレプリカントだとかそんなことは些細な問題。
ただ、この世界の秩序の壁といえる生殖能力。これをレプリカントが備えた場合、人間とレプリカントの境は消えることとなる。これは世界規模で見れば大問題である。
どちらが「本物の」覇権を握るのか。その争いが生じる。
しかしながら今現在も機械のようなお目々のウォレスが経済界を席巻しているし、孤児院ではレプリカントらしき男性*2が人間の子どもたちを労働させている。最早ジワジワ人間の境界線は有耶無耶になりつつある。
けれどこの作品はそんな大仰な落とし所にはしていない。なにが本物かそれは争いではなく、前述したようなもっと身近なところにある。
抵抗軍に「デッカード刑事を殺しなさい」と命じられてKがとった行動。デッカード刑事をウォレスのもとから救い出し、彼の娘の元へ命を賭し送り届ける。
このKの行動こそ作り物のなかに見えた「本物」なのではないか。自分の利益を度外視したその行動こそ、明確な「意志」を伴ったものなのではないか。
この利他的行動が私は観ていて辛かった。でもこれでKは報われたんだな。そう思うとなんだか私自身も肩の荷が降りたような。
ハリソン・フォードが出てきてからライトがチカチカする演出。前作を意識したのかなあ。
ハリソン・フォードは終盤近くまで出てこなくて、でも間違いなく彼の物語でもありました。
これがまたゴズリングに輪をかけて哀愁が・・・・(うううう)
短編映画はどんな感じだったのか・・・気にはなってる・・・。
《2023.11追記》画像差し替えました。