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【感想・考察】ナイン・ストーリーズ ―小舟のほとりで―

ようやくナイン・ストーリーズも折り返しです。今回は文量としてもだいぶ短めで、さらりと読めますよ。

ただ、さらりとしている分、解釈をアウトプットするのにめちゃくちゃ骨が折れました。

 

というわけで以下考察と感想です。

 

 

 

小舟のほとりとは?

これはライオネル(こども)とブーブー(大人)の世界双方を示します。

家出をして小舟に閉じこもるライオネル。それを舟のそばから呼びかけるブーブー。この舟のシーンからが物語の本題となります。

 

大人の世界といのはモラル、マナー、常識、もっと言えば法律などそれぞれの共通認識が「社会」という形で作り出されています。

 

一方子どもにはそれぞれ個別の世界があり、その中に「自分ルール」があり、それに従って動きます。

子どもの見ている世界と大人の見ている世界って違いますよね(回りくどい書き方をしましたが、言いたいことはこれ)

 

 

子どもの作る世界

子どもの世界というのも結局のところ「社会」のなかの世界にすぎません。ただし子どもの世界はうっすらバリアのようなもので覆われ、適宜社会との兼ね合いを保つためコントロールされます。つまりこどもと社会をある程度隔てておく必要があるのです。そのクッションのような役目を果たすのは基本的には「家族」「親」ですかね。

この作品では母親であるブーブー。

しかし、社会というのは親が意図せず、その片鱗が子どもの目に触れてしまうこともあるわけで。子どもたちは見たくなかった、もしくは見せたくなかった社会の現実に直面してしまうことがあるわけです。

 

例えばブーブーが小舟にいるライオネルに話しかけるこのシーン。

「わしだ。海軍中将タンネンバウム提督だ」と、ブーブーは言った「旧姓グラース。船尾信号機の点検に参ったぞ」

「提督なもんか。ママは奥さんじゃないか」

あたしが提督じゃないなんて、誰があんたに言ったの?

(略)

「パパだよ」

 

ママは海軍中将ではなく、ただの奥さんである。

サンタクロースって実はいないよって言われるのと同じ感じだと思いますが、これはライオネルの世界観を揺らがせる(現実を突きつける)ことになってしまいました。

 

まあ最終的にこどもは大人になるわけなので、ここで「うん、そうなの。実はママは海軍中将ではないのよ。」ってあっさり肯定しても良いように思います。

 

しかしブーブーはそうはしなかった。

ライオネルに正体がバレて(?)なお海軍である設定を貫こうとします。

 

なぜでしょうね。結論としてはまだライオネルを大人の社会へ出さない、子どもの世界に留まらせておくためでしょう。

 

一方ライオネルは自分のなかで「現実」=「社会の一旦」を受け入れよう・・・・うーん、やっぱり無理!みたいに絶賛消化中なわけです。

そのために小舟に自分の世界をつくり、籠もっている。母親であるブーブーに対しても誰も入ってはいけないと拒絶します。

 

捨てられたゴーグルとキーホルダー

これは親子であるライオネルとブーブーにしかわからないやりとりです。エスキモー対戦のときのようにまた深読みにハマってしまいましたが、これはあまりにも手がかりが少なすぎました。

恐らくこれはサリンジャー自身も明確に伝えようとしてませんね。たぶん。

 

ですが、ここでブーブーがなにを求めていたのかはわかります。それは拒絶されている小舟(=ライオネルの世界)に入れてもらうことです。

そうしないと家出の理由も聞けませんからね。

 

が、母親が予期したとおり、その目に反撥の色は見えなかった。

息子は膝の上の包みを眺め、手に取ってまた眺め、それからそれをぽいと横ざまに湖へ放り投げた。そしてすかさずブーブーの顔を見上げた。その目には反抗の色ならぬ涙がいっぱいに溢れていた。

ブーブーは、劇場で足がしびれてしまった客のように用心しながら立ち上がると、そろそろと舟の上に足を下ろした。

ブーブーがその駆け引きを制したというわけです。

 

ここでライオネルから家出の理由が明かされます。

「サンドラがね―スネルさんにね―パパのことを―でかくて、だらしない、ユダ公だって―そう言ったの」

この瞬間、親子の視点から、彼らを取り巻く社会(マクロ視点)に移行します。ユダヤの差別問題。これが浮き彫りになりました。

 

不幸中の幸いというべきかライオネルは「ユダ公」の意味はまだわかってはいませんでした。

しかし、ほぼ身内ともいえるメードが自分の父親の悪口を言っていた。その事実だけでこどもの心を傷つける(彼らの世界を揺るがす)には十分なわけです。まだまだ脆い子どもたちの心。

 

というわけで最後、ブーブーがしたことは、ライオネルをこどもの世界へ再び落ち着かせること。

「車で町に出て、ピクルスとパンを買うの。そうして車の中でピクルスを食べるの。それから駅へ言ってパパをお迎えして、それからみんなでおうちに帰って来て、パパにこのお舟で遊びに連れてってもらう。(略)」

 

ユダヤの家系である彼らに今の社会の現実は厳しすぎます。特にまだ4歳のライオネルにはなるべく社会の闇には触れずにいてほしいもの。

しかし彼もいずれは社会に染まらなければならないが、今のままでは彼の待っている社会は差別的な社会でしょう。

 

最後、楽しそうにかけっこをしているはずなのに何か物悲しいのは、そういったミクロの幸せな世界とマクロの残酷な背景が同時に見えてしまったからなのかな。

 

 

 

さいごに

ストーリーの構成はバナナフィッシュにうってつけの日とよく似ていて、中盤まで脇役の会話劇、メインキャラが動くのは後半から、という作り。

 

このお話は、さらっと読めるのかな、でもなにか深いメッセージがありそうだ・・・・・・いや結論は同じか、みたいな。結局一周してきたよ、みたいな(語彙力)

 

そしてここにきてようやくグラース家について調べました。コネティカットのウォルトもグラース家だったんですね。(だからといって作品を読むのに支障はないっぽい)

 

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このへんも読んだほうが更に作品理解も深まるのかな。

 

この後からのナイン・ストーリーズの作品は重厚になるので、ゆっくり考察書いていきます。

 

 

では、ここまで読んでいただきありがとうございました。