順番前後しまして、サリンジャーの代表作のひとつともいえるバナナフィッシュにうってつけの日。私がサリンジャーを初めて知ったのもアニメ作品「BANANA FISH」(原作は漫画)を観たときでした。もうだいぶ前なのに時たまアッシュのことを思い出しては、胸が苦しくなります。
話がそれましたが、以下感想と考察を綴っていきます。
実はこの作品があまりにも有名なので、一通りのストーリーは知っていました。本当なら作品を読んで最後に衝撃を受けたかったですが、まあ今更悔やんでもしょうがないですね。
バナナフィッシュとは
タイトルのバナナフィッシュが意味するもの。すでにたくさんの方が考察されていて、めちゃくちゃ参考にさせていただきました。
バナナフィッシュは戦争へ向かうシーモア自身。バナナの入った籠は戦争。バナナを食べすぎて穴から抜けられなくなり死んでしまうのは、戦争でたくさん人が死んだ(殺した)ことを意味し、戦争に囚われたままシーモアも死んでいく。
シーモアはどこかで「死のう」とぼんやり考えていたのかもしれません。では、それが今日だったのはなぜか。
シーモアの理解者は誰?
序盤(というか物語の半分あたり)までの妻ミュリエルとその母親との電話でのやりとりから、シーモアが日常生活に支障を来すほどの精神疾患があることがわかります。
その原因はまごうことなき戦争。
まず、私は戦争を知りません。いや、ここはわからないと表現すべきでしょうか。テレビなんかで戦争の様子は観ることができますが、実際に体験した方々と私の見聞なんかはきっと比べ物になりません。
昔に祖父から少し第二次世界大戦当時のことを話してもらったことがありますが、幼い私は「ふーん」で済ませてしまった記憶があります。
どうでもいいってわけではないんです。深刻なのは何となく伝わるのですが、当時はわからないんですよね。アホな子どもだったので気遣うなんて発想もないですし。
この、当事者と第三者のズレがミソになると思いました。
このシビルとシーモアの関係も私と祖父との関係に近いでしょう。シーモアの戦争での傷を見ようがそこに触れることはない。何も知らずにバナナフィッシュ探しを楽しんでいますね。シーモアとしてはそれで良かったのではないのかなと思います。戦争の傷なんて理解してくれなくてもいい、ただそれを忘れるぐらいの楽しいひとときが欲しい。
ではシビルがシーモアを満たす存在か。
それはノーだと私は考えます。
もし、シビルがシーモアとずっと一緒にいてくれるなら良かったと思います。しかしシビルはあっさり海からあがって未練気もなしホテルの方へ帰っていくわけです。だって戦争で負った心の傷があるなんてシビルは知りませんし、知ったところで過去の幼い私のように「ふーん」と流しちゃうんじゃないでしょうか。それが無邪気な子どものいいところでもあり、シーモアもそういう彼女が好きだったはず。そして無邪気な子どもは別れもあっさり。ずっとシーモアの遊び相手になるのはたぶん無理なんですよね。
シーモアの心の傷は彼女では癒やしきれないのです。あくまで一時的な薬に過ぎません。
心の傷に向き合い、常に寄り添ってくれる存在も必要な訳です。
戦争でこんなに辛く、苦しい思いをした。本当は忘れたくたって忘れられない。ひとりでは背負い込めない。この気持ちを包み込んでくれるような存在。
それができる(している)のは妻ミュリエルでしょう。
シーモアを疎ましく思っていそうな母親に対し、ミュリエルは終始かばうような発言をしていますし、シーモアに「1948年度精神的ルンペン」と毒を飛ばされても笑って流せるおおらかさもあります。
「ミュリエル、もう一度だけ訊きますけどね―あんた、本当に大丈夫なんだろうね?」
「本当よ」
(略)
「90ぺん訊かれても答えはおんなじ」
本当にミュリエルはシーモアのことを大切に思っているのでしょうね。
そこに愛はある。
ではミュリエルはシーモアの心の傷をケア「できる」存在なのか。
残念ながら恐らくこれもノーでしょう。
ケアをするのに一番近しい存在はミュリエルだと思います。しかしシーモア自身の態度はというと
「バスローブを脱ごうともしない?どうして?」
(略)
「大勢のバカ者どもに文身を見られるのはいやだって言うの」
「あの人、文身なんかないじゃない。それとも軍隊にいるときにしたのかしら?」
「いいえ。違うのよ」
いろんな方が考察されているように、ミュリエルが少しごまかしていることからも「文身=戦争での傷」でしょう。
恐らくミュリエルの計らいで、養生にきたにも関わらず、いつ何時もバスローブを離さないシーモア。この様子から、ミュリエルの優しさや大らかさを疎ましく感じている部分があったのかもしれません。
そこでうまくバランスがとれるのかっていうと人間ってとれないと思いませんか?
何も知らずに無邪気に接するシビルと、事情を知った上で優しくするミュリエル。心の傷をたまに忘れさせてくれて、たまに向き合ってくれる。二人の良いところだけとろうなんて不可能に近いです。
これから世界中を探せばそういった人が見つかる可能性もありますが、途方もない話。
シーモアは、自分の真の理解者はどこにもいない。そう悟ったのではないでしょうか。
世界に自分は独りなんだな、そう感じていたとしたら・・・。
そうやってを悟ってしまったのがこの日だった。つまりバナナフィッシュにうってつけの日(自殺)というわけです。
最後、ミュリエルのことを「女」と冷たい表現なのも、すべてを諦めたシーモア自身の心境なのかな。
しかし引き金を引く際にミュリエルを見ていた。これは機械的に死のうとしたのではなく、ミュリエル対しに何らかの感情はあったのかも。それは悲しさなのか、愛情なのか。何にしても切ない最期です。
対エスキモー戦争の前夜では、人の心の変化なんて気にするものではない、と書きました。
バナナフィッシュは逆ですね。自分の心の中すべてを理解してほしい。心の傷が深く大きいほどそう感じてしまうのかもしれません。
さいごに
サリンジャーの「人の心」を描く文才ぶりにはホトホト尊敬を通り越して呆れてしまう。
バナナフィッシュにうってつけの日が名作と言われるのもうなずけますね。
若干サリンジャー中毒を起こしつつある自分・・・。
では、ここまで読んでいただきありがとうございました。
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