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【感想・考察】ナイン・ストーリーズ ―対エスキモー戦争の前夜―

この作品の一番の謎は、終盤のジニーの心変わり。その理由に関して深読みするものでもないのか、それとも凝ったメッセージがあるのか・・・。簡単なようで難しかったですが、脳みそフル回転で考察していきたいと思います。

 

 

 

タイトルの意味

まず、最大の謎ジニーの心変わりの理由。これははっきり言ってわかりませんでした。

始まってそうそうにがっかりな結論お許しください(汗

 

といいますのも、ここの話で重要なのは「理由」ではなく、「変わったことそのもの」つまり「変化すること」が話の軸だと思ったのです。

これがタイトルにも繋がってくるのかなと。

この世のものは何でも変化を伴いますよね。絶対変わらないと思っていたことだって変わるわけです。

この話の冒頭ジニーは、セリーナにテニスをした帰りのタクシー代を払わされることにいよいよ我慢ならなくなり、お金の催促を持ちかけます。セリーナは支払いを渋りますが、ジニーはそれに対して「殺してやりたい」とまで表現していることからもう怒りは頂点に達してますね。

 

多くの読者はここで(これ絶対絶縁するやつだ)そう思ったのではないでしょうか。

 

ところがどっこい最後の展開で

(えーっなんでだ?普通お金せびり取られ続けて急に許せるもん?なんでそうなる?)と???が並び、理由探しのドツボにはまったのは私だけではないはず。

 

理由を探してめちゃくちゃ読み込んで調べましたよ。でも分からなかった。心変わりの理由なんてよくよく考えたらなくても良いんですよね。変わるもんは変わるんです。ジニー本人の中に理由は散らばっていたかもしれませんが、他人の我々にはわからない。それでいいんです。他人にはわからないけど本人が腑に落ちて変えたのならそれで。どんなにキレ散らかしていてもなんてことない理由で頭が冷めることもありますからね。

 

絶対こうなるはず!これはこういうもの!という固定観念。そんなものは本当は存在していないのかもしれません。

 

そしてこの「絶対はない」「変化すること」というテーマがタイトルにも表れています。

作中でも、フランクリンの話すエスキモーとの戦争というのは実在しません。フィクションです。なのですが、これを別の視点から「今はこの戦争は起きてないだけ」という解釈ならどうでしょう。フィクションがノンフィクションになる。戦争はもうしてはいけない。どんなに固く誓っても繰り返されている現実はあります。これもありえないなんてことはないわけです。

 

そして皮肉として効いているのがエリックの話した「善きサマリア人

とにかくそんなような町の男でね、見たところ餓死寸前てな様子なんだな。それを僕は思いやりを発揮してさ(略)ご親切にも自分のアパートに引き取ったってわけだ。

善きサマリア人自体はとてもいい話です。このエリックのように人種・宗教問わず困っている人を助けることは素晴らしいこと。そういった話です。エリックという青年像は身なりも小綺麗、神心深く、所作も美しい。エリックも善きサマリア人になろうと見ず知らずの人を助けてあげる、素晴らしい好青年です。

奴さん、朝の五時か六時にぷいと出て行っちまったんだよー置き手紙ひとつしないでー汚らしい奴さんの手の届くかぎりの物をそっくり持ち出しやがってさ。

しかしながら現実は厳しいもの。助けた人からこの仕打ちは誰だって凹んでうなだれちゃいますね・・・。

 

これも、まさかここまで世話をした人間を裏切るような展開があるとは・・・!と先入観が覆され衝撃だったでしょう(エリック本人は)恩が必ず恩で返ってくるとは限らない。仇で返ってくることもあるのです。例え聖書に書いてあることでも。

「絶対はない」と聖書を絡めるあたり、現実はそんな綺麗なもんじゃないよ~とサリンジャー本人からのメッセージ性を感じました。

 

 

死んでしまったヒヨコ

先程タイトルの意味、「絶対はない」つまり「変化すること」がこの作品の軸だと考察しました。絶対なんてものはないと散々語りましたが、唯一当てはまるものがあるのです。

それが「死」

生きとし生けるもの「死」は必ず訪れます。これは例外がありません。絶対です。

チキンサンドと死んでしまったヒヨコが「絶対的な死」を表しているのではないでしょうか。

 

 

フランクリンからチキンサンドをもらうくだり

「とってもおいしそう」

「じゃあ食いなよ」ジニーは一口かじった。

「うめえだろ、え?」ジニーは苦労して飲み込みながら「とっても」といった。

 

苦労して飲み込んでいる、とあることから、ジニーがこのチキンサンドに苦手意識を持っていることが伺えます。その理由としてこの時点ではジニーは本当にお腹が空いていないのか、先程あったばかりのフランクリンからもらったものが受け付けなかったのか、そもそもチキンサンドが嫌いなのか判断できません。

フランクリンが去ったあとどこかに捨てるところがないかと探すあたり、チキンサンド嫌いであることが一層印象付けられます。

 

そして最後、セリーナの家から帰る道中、

彼女はそれを取り出すと、腕を下にのばしてそっと路傍に落とそうとしたが、途中で止めて、またもとのポケットにしまい込んだ。数年前、復活祭の贈物にもらったヒヨコが、屑籠の底に敷いたおが屑の上で死んでいるのを見つけたときにも捨てるのに三日もかかったジニーであった。

ジニーのチキンサンド嫌いの理由がここで少し見えてきますね。

この話の主軸であろう「変化する」

死は生に変わるのか。絶対に変わりませんよね。

キリストは処刑されてから三日後に生き返った、とあるようですが、復活祭のヒヨコは三日経っても生き返りませんでした。

これがもしかしたらジニーのトラウマ的なものなっていたのかもしれません。「死」を受け入れられなかったのです。

私にも似た経験があって昔公園で遊んでいると、鳩の死骸を見つけたことがありました。しばらく鶏肉はだめでしたね。これも「死」を受け入れられていなかったからなのかなと思います。今は受け入れられているのか、というと受け入れられていないと思います。鶏肉は食べられるようになりましたが、鳥類への苦手意識は未だにあるので。

 

終わりの表現も結果的に家に帰ってチキンサンドを捨てたとも取れるし、チキンサンドを食べられるようになった、とも捉えられます。

つまりジニーがヒヨコの死を受け入れられたのかは、やはりわかりません。

 

何度も言います。わからないことだらけですが、わからなくて良いんです。「絶対」はありませんから。

しかし「死」は「絶対」なんです。そしてこの「絶対」だけは人は受け入れるまでに時間がかかる、もしくは「死にたくない」と「絶対的な死」を否定しながら死ぬひともいますよね、きっと。

なんとも皮肉な話です。

 

さいごに

人にとっての永遠のテーマ「絶対」「変化」

正直難しすぎて考察もフラフラしてしまいました。上記の他にも戦争に関して、宗教に関して主張が隠れていそうなのですが、もうこれ以上推敲することは平々凡々な主婦には無理がありました。

 

シンプルが一番奥深くなる。しみじみそう感じます。

 

また次の記事もボチボチ頑張ろう・・・。

 

では、ここまで読んでいただきありがとうございました。