心理学者C.Gユング著。私は人間の精神世界について浅はかな知識しか持ち得ていないにも関わらず、わかったつもりになっていたようです。というのもそもそも心理や精神とは哲学や宇宙やスピリチュアルなどと同様、どうせこんなものでしょうという至極当たり前の結論か人などの手には負えない代物であり、読んだ人間を混乱に陥れるだけに違いないという先入観が少なからずあったように思います。
心理学系の本って胡散臭いものも多いですからね。特に実用性を謳っているのなんて絶対に手に取ろうとは思いません。
メンタルヘルスやカウンセリングなどの言葉は当たり前に使われるようななった世の中ですが、言葉の独り歩きになっている部分も多々あるんだろうな。
図書館でこの本は借りたのですが、読めた期間が短く実は半分(100ページ)程度しか読めていません。
それでも自分自身の身になったと感じるのは、やはりユング氏ご本人が、自身のありのままの言葉で書いているという点が大きいかと思います。
これはわかりやすさとは対になるもので、
この本ーーというかユング氏の言い回しは少々回りくどい説明や統一感のない表現、暗喩があり、結論そものものを見つけるのが難しいです。*1
言ってしまえば「ピンときた箇所があなたにとっての重要箇所なのでしょう」といった感じでしょうか。
科学や数学などあらゆる専門分野的なものも含め本というのは、結局のところ商品なので売れなければ意味がない。
そのせいか何につけても過激なタイトルであったり(特に新書)とにかく分かりやすさに特化したり。
でも知識の摂取=読書とは私は思ってはいなくて専門分野的な分野でもなんでもその人間のーーその人自身のドラマを感じたいのですよね。
例えばですが、かの有名なアインシュタイン。
自身が構築した相対性理論(における時間の相対性)に関して物理学の門外漢から尋ねられたとき、「熱いストーブの上に1分間手を当ててみて下さい、まるで1時間くらいに感じられる。では可愛い女の子と一緒に1時間座っているとどうだろう、まるで1分間ぐらいにしか感じられない。それが相対性です」と、ユーモアで答えた。ーーWikipediaより
私はこういった発想を表に出してくれる文化人が素敵だなあと思います。
今は別の本を読んでいるので先々の話にはなりますが、続きを読んでみて改めて本記事にシレット加筆するかもしれません。
さて、本題に戻りますが現在表出化している人間性の諸問題や疑問。
- なぜここまで推し活が盛り上がりをみせているのか(=なぜ依存してしまうのか)
- なぜモラハラやDVをしてしまう男性がいるのか。
- 子ども(未開人)と自然物の関係性
- なぜ鬱状態の人が増えているのか
- 過度な合理性のはびこり
これらがユング氏現役の際にはすでに当たり前に存在していたようでしたが、暗示的(控えめであればOK))だったとも書かれています。
ただ、精神病患者の場合はその暗示部分がより荒く拡大した形で観察しうる・・・とのことなのです。
問題提起とも言える本だったのにも関わらず現代では全く変わらないどころかひどく助長されているような印象すら受けます。精神分野をないがしろにしてきた、見ようともしてこなかった結果なのかもしれません。
本の後半部分が恐らく具体的な心理的諸問題に対する解決策を明示していたのではないかなと思われますが、前半部分だけでもそのヒントは散りばめられておりました。
私がこの本の中で感じ取った問題点を勝手に総括しますと
社会的なもののために自己放棄をする
という点。もちろんこれだけが原因ではなく、平易に表現しているのはこの部分。
そうならないためにはもしくは精神的な病から脱するためには
その人のあるがままの姿のみが治癒力を持つ
とのことでした。
俗に言う自己肯定感を大事にしましょうという話でいいと思います。ですがこの自己肯定感という意味合いの受け止め方は人によってそれぞれでしょう。
これについてある程度簡易に書いてくれているのが養老孟司著『バカの壁』です。
個性化していきましょうというのが逆説的に書かれています。
個性化とはなんなのかというとその人がもつ目・鼻など肉体的なものです。その人の持つ思考や考え方ではありません。
これがユング氏と養老氏で共通している認識でしょうか。
因果関係についてもだいぶ乱暴に抜き出してる感は否めないのですが、これ以上書くとなると、ほぼ本を丸写しのレベルになりそうなのです。
現在子育て中の母としては、子どもの不可解にも関わらず全世界共通とも言える言動に非常に納得感を覚えた箇所があったので紹介させください。
私自身も子どもの時分そうだったらしいのですが、「喉がかわいてるんだよねえ」と言って石を水たまりに投げ入れていたことがあるそうです*2。
それとまったく同じことをうちのムスコも先日してまして、非常に驚いたんです。
ユング氏によれば人間の無意識には集団的無意識と呼ばれる部分がありこの部分は本質的には未解明で、なにか宇宙的な(すべての物質物体の共通原則的な)ものが存在している(らしい)のです。もちろんこれらは言語化できるものではありません。言語化や法則化が意識下でできるものはここで言及するものとは異なります。*3
これらは国ごとの神話の共通性などに見出されるのですが、それにアクセスしていた(らしい)存在というのがシャーマンと呼ばれる人たち。
シャーマンに限らずですが昔の人々はなにか全体的なひとつのまとまりを感じ取る力に長けてはいたようなのです。昔の人のほうがなにか普遍的なものを見出す力は強かったようには思います。いい例がちゃんと体系的に確立されている宗教ですね。
それが子どもの時分にはかろうじて表面的にでてくることがあるのではないか。
そのように感じました。例えば心霊的現象に対してなどお子さんが反応するといったことは珍しくないですよね。これも集団的無意識の一環なのだと思います。
と、こんなスピリチュアルなお話もあり、刺さる人には刺さるのではないでしょうか。
悩める現代人こそ精神世界へいらっしゃ~い。
ではでは。