午前十時の映画祭にて鑑賞してきました。鑑賞中、身体中ふるわせながら号泣していた不審者は私です。
この作品は観ればみるほどにバンクス家の主人、バンクス氏に情が移ってしまう。
時は1910年のイギリス。この頃世界では初めてライト兄弟が空を飛び、街には車が走り出し、アインシュタインが相対性理論を発表。そんな進歩主義世界の最先端をいくイケイケな時代のイギリス。*1
活気あふれる経済界の中、バンクス氏は銀行の重役として日々働いています。規律を何よりも重んじる厳格な父親、そして紳士。バンクス氏のテーマソング「私の暮らし」がそのキャラクター性をよく表現しているのですが・・・これが流れるだけで勝手に涙が流れる仕様になってもうとる私。
これだけ裕福で家も豪華でメイドも2人いて、綺麗で明るい奥さんや天真爛漫な子どもたち(ジェーンとマイケル)がいるにも関わらず、彼の精神はメリー・ポピンズの襲来――子どもたちの成長――とともに乱されていくのです。
メリー・ポピンズとはいわば理想の権化。存在し得ないもの。
この作品におけるすべての事象は比喩。絵の中に入っていくのも、笑うと浮いてしまうおじさんも、鳩の餌を売るおばあさんも、みーーーーんな「こうなればいいのになあ」を引き出す比喩。
現実世界であれば、ひたすら父親と子どもたちの心は離れていき、そこに「愛」などは存在しなくなるのでしょう。これが貧困だろうが裕福だろうが関係なしに、平等に訪れる人間の試練なのかもしれません。
子どもが育っていくのはあっという間で
手が離れてしまってからでは愛は伝えられない
私自身が子ども時代を経て今現在親になったわけですが、愛を秘めているだけでなく、表現することの大切さをちょうど身に沁みて感じているところでした。
ムスコには毎日のように家や外関係なく「大好き」の雨を降らせますが、こんなこと、ウチの親含め昔の親御さんでしているひとは少なかったのではないでしょうか。うちの親はバブル世代ですが社会全体で愛(情)<金に傾いていくのは経済成長における代償なのでしょうね。
当時私自身それがなくてさみしかったわけではありませんが、
成長して様々な分別がついたときに、ちょっとした言動が一気に親を不審者同様の扱いにしてしまうんですよね。こうなっては親の言葉はなにも子どもには届きません。
一方、大きな社会の変革により生じている
父親(稼ぎ手)は孤独
という事実。
このフレーズを、なんのしがらみもなくその日暮らしを楽しむバートに言わせるのが憎い。バートもメリー・ポピンズ同様スーパーマンのような存在です。何でも出来て、何でも持ってるスーパーマンをメリー・ポピンズとするなら、何も持たない豊かさを体現しているスーパーマンがバートでしょう。
バンクス氏の生き方の転換点をつくるきっかけはメリー・ポピンズでしたが、実際心の針路を180°を変えることができた――心の深部にアクセスすることはバート以外には出来なかったと思います。
この作品の白眉は観るごとに変わっていくと思いますが、今回心が一番動かされたシーンを。
マイケルの持つ2ペンスが原因で取り付け騒ぎになり、重役ポジションが危ぶまれるバンクス氏。彼がトボトボ帰宅すると、家の中ではチムニー(煙突掃除人)たちがstep in timeで大暴れ。バンクス氏は困惑のなか全チムニーと握手します。
チムニーと握手すると幸せになれるという言い伝えと現実問題お先真っ暗という対比がこの上なく秀逸で、このあとのフィナーレも知っているだけに大号泣。
家族の絆が取り戻されるとメリー・ポピンズも不要になる。最後、メリー・ポピンズが帰るシーンにちょっぴり哀愁を感じるのも私がこの作品を好きな理由です。
それにしても作品自体はいつ観ても新鮮で色褪せないにも関わらず、もう演じていた俳優さん達は殆ど亡くなっているんだよなと思うと何だか変な感覚になりますね。
*1:こういった描写が出てくるわけではないのですが