日がな一日主婦の趣味ブログ

本と映画とエトセトラ

ライ麦畑でつかまえて ―人には勧められない不朽の名作

私がこの作品を超名作と評していながらも、人にはおすすめできない理由。

 

そのひとつは主人公ホールデン・コールフィールドがどうやっても救われない物語だから。

病気や事故で死んじゃうとかそんな安っぽいオチではありませんよ。いわばこれは人間に産まれてしまったが最後、逃れられない宿命のような話です。

 

もう一つ、この物語はホールデンが私達に語りかけてくるような口語調で進んでいくのですが、彼の話すことはどうも要領を得ない。

理路整然とした語り口調が好きな人には少々酷だなと思います。

 

ですがこの「で?結局なにが言いたいわけ?」と人によっては心をピリつかせるような文章こそこの作品の真髄です。

まさに社会に溶け込めていない、けど子どものままでもいられないという不安定感がヒシヒシ伝わります。

ホールデンという人間の境遇、思考、すべてに深みが増すんですよね。

 

ちなみに私はこれを読んで「ホールデンの一番の理解者は自分なのでは?」と錯覚めいた現象に陥りました。

この作品にハマった人には共感いただきたいところ。

 

 

逆に下手に人と語り合えない作品とも言えますね。

解釈違いが必ず生じて殴り合いの喧嘩になるのが目に浮かぶ。

 

 

なのでこのブログで勝手に講釈を垂れていきたいと思います。

 

 

 

勉強ってなんのためにするの?

ホールデンはペンシーという、そこそこ名の知れた進学校に通っています。お父さんはニューヨークで弁護士。お兄さんは作家――しかもハリウッドに引き抜きされるほどの作家、

他兄弟も地頭がめちゃくちゃ良いみたいなんですね。

恐らく例にも漏れずホールデンもそのはずなのですが、なぜが勉強をしようとしない。

なんならペンシーに入るまでに4つ学校を退学になっています(これも恐らく勉強のしなさすぎ)そしてついにはペンシーも退学になってしまう。

 

なぜ勉強をしなくなったか。ホールデンはこう述べます。

 

将来キャディラックが買えるような身分になるために物をおぼえようというんで勉強するだけなんだ。(略)やることといったら、1日じゅう、女の子と酒とセックスの話、

 

たいていの人がそうじゃないか、車にまるで夢中じゃないか。小さな掻き傷でもつけやしないかっておろおろしてやがる。そして話すことといえば、いつも1ガロンで何マイル走れるかだ。真新しい車を手に入れれば、すぐにもう、そいつをもっと新しい奴に買い替えることを考える。

 

結局勉強自体にはなんの意味のないんじゃん?ステータスがほしんでしょ?とこういうわけです。

もうこれ言われちゃうとどうしようもないですね。

 

 

これは「都会」ひいては「資本主義」に対する強烈なアンチテーゼですよね。

でもそんなこと言ったってお金と空気は同義語のように当たり前に存在する。

すべての指標・価値は金で計られる。

 

もう社会人経験を積んでいる私達なら至極真っ当ですよね。

 

世の中金、とそれに付随する名誉と地位

 

例えばこの大都会東京で、全く名誉や地位がいらなくて社会に身を捧げますなんて人いますかね。

 

 

私はいないと思います。

 

 

 

しかしながら、そういった人たちも、たまには社会の役に立とうじゃないかって理由で働いているときもなくはないはず。

 

すなわちホールデンのいうことも正解なのですが、そうじゃない一面もあるにはあるのですが・・・・

 

 

やっぱり前提は金だね、とこうなるわけ。

 

 

 

そこをホールデンは「インチキ」「反吐が出る」と完全拒否反応。

なんならここは開けてはならないパンドラボックスの領域ですからね。子どもは見ちゃダメ、絶対。

ここをのぞいてしまったが最後、大人を信用することなんて金輪際できないでしょうねから。

 

ただ、普通は子どもたちってそんなところまで勘ぐりませんからね。

子どもと大人の「信用関係が」成り立っているからこそ、彼らも勉強に対してしっくりした答えが貰えなくても、勉学に励むわけですよね。

 

 

では、なぜ彼がここまで大人に懐疑的なのか。

それは彼のまだまだ短い経験則から導かれたものなのです。

 

 

幼くして亡くなった弟のアリー

ホールデンには白血病で亡くなった弟がいます。名前はアリー。享年11歳でした。

ホールデンはアリーの死を受け入れられず自宅ガレージの窓という窓を破壊し、手も後遺症が残るほど傷ついてしまいます。

 

アリーの死についてホールデンが述べるシーンがあります。

 

天気のいい日には、おやじとおふくろとがそろって、よくアリーの墓へ花束をさしこみに出かけるんだ。二度ばかし僕もいっしょに行ったけど、それきり僕はやめちまった。(略)太陽が照ってるときはそんなでもないけど、二度――二度だぜ――墓地にいるときに雨が降りだしたことがあるんだ。(略)墓参に来てた弔問者たちは、みんな、いちもくさんに駆けだして、めいめいの車に逃げこんだんだ。それを見て僕は気が狂いそうになったね。出かけてきた連中は、みんな、車の中に入ってさ、ラジオをかけたりなんかして、やがてはどっか快適なとこへ行って夕食をとることができるだろう。しかしアリーはどうなるんだ。それを思うとがまんならなかった。

 

悲しみの渦中にいるホールデン

これが大人への疑心暗鬼のきっかけなんじゃないかな、と思っています。

 

これも私達には至極当然のことですが、死んだらそこに故人はいない。いるように振る舞うけれど、心の底では「もういないんだよな、前に進まなきゃな」そうやって生きていくものではないでしょうか。

 

しかしホールデンは違う。アリーはまだ「いる」んです。ただ肉体がなくなっただけ。どこにいるのかはわからないけど。

 

そういった認識なのだと思います。

 

なのでホールデンからみれば、この人達は形式的に故人を偲んでいるだけなのだ、と訝しんでしまったんですよね。

 

 

アリーはまだ「いる」という認識のホールデンは、そのアリーと脳内で会話することもあります。しかも声に出して、ですよ。

ホールデンの常識からはすれたような行動はこれだけはないのですが、この記事では省きます)

 

 

さて、こういったことに対して「え・・・頭おかしいんじゃないの?この子」と引いてしまう方もいれば、

ホールデンのこういった奇行じみた行動が腑に落ちて受け入れられる方もいますよね(いてくれ)

 

 

ホールデンの思考・行動っておかしいと思いますか?どうでしょう?

 

 

ライ麦畑でつかまえるべきなのは

「The catcher in the rye」はさまざまな翻訳家によって訳され出版されています。

そのなかでも野崎孝が手掛けた「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルは「名訳」と言われています。

 

本当は「ライ麦畑の捕手(捕まえ役)」が正しい訳なのですが、なぜニュアンスを変えたのでしょうか。

 

では有名なセリフを見てみましょう。

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。(略)一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。

これは妹のフィービーとの会話です。4回目の退学にさすがのフィービーもドン引き。「なんでそんなに社会に抗うのか」「なにかなりたいものでもあるの?屁理屈こねてるだけなんじゃないの?」といったことを捲し立てられるわけですが、

ここでなりたいものを答えたのがこのライ麦畑の捕手だったわけですね。

 

でも考えてみてください。

 

ホールデンって捕まえる側に回るべきなんでしょうか。本当は他の子ども達と一緒にライ麦畑で遊んでなきゃいけないんじゃないでしょうか。

 

環境問題に切り込んだグレタ・トゥーンベリちゃんや昨今で日本の社会問題にもなっている「ヤングケアラー」

ふたつとも全く別問題のようでライ麦畑的に見ればこのふたつもホールデンと同じようにライ麦畑の捕手になろうとしている子達です。

ほんとは大人が捕まえてあげなきゃいけないんですよね。

 

意外と思春期ぐらいの子が一番社会の弱さに寄り添ってくれてるんじゃないだろうか、とふと思っちゃったわけですよ、無力なおばちゃんは。

 

作品の深いテーマを読み取り、訳を変える。

天才の為せる業ですね、これも。

 

 

ここのシーンでタイトルの伏線回収がされた瞬間、過呼吸になるんじゃないかってぐらい泣いてしまったのはここだけの話。

 

 

唯一の救いにはさせなかったアントリーニ先生

ホールデンが作中家族をのぞいて唯一「インチキ」呼ばわりしない、むしろ「親切な人」とまで言わせる心の支えのような存在が登場します。

アントリーニ先生はホールデンの兄D・Bに雰囲気が似ていて話しやすく、ホールデンにとっては先生というより、お兄さんという感じのようです。

 

なんやかんやあって、「急遽夜中に家を訪問したい」という申し出も快く受け入れますし、なによりホールデンの才能を認めて伸ばそうとしてくれる、登場人物の中ではぐう聖ポジションですね。

 

以下、アントリーニ先生のありがたいお言葉。

未熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある。

 

これは君に言いにくいことなんだが、いったん君の行きたい道がはっきりと掴めたらだな、まず君のやるべきことは、学校に入るということだ(略)君は人間の行為に困惑し、驚愕し、激しい嫌悪感さえ感じたのは、君が最初ではないということを知るだろう。その点で君は決して孤独じゃない、それを知って君は感動し、鼓舞されると思うんだ。今の君とちょうど同じように、道徳的な、また精神的な悩みに苦しんだ人間はいっぱいいたんだから

 

この歳でこれだけの感受性は素晴らしいものだ。悲観的にではなく、前向き進めるようになんとか修正したい。

勉強というのも決して捨てたものではなく、むしろホールデンのような子がどんどん知識を吸収していくことで社会との化学反応は他一般の人たちに比べて何倍にも膨れ上がるんだよ、ということなのですよね。

 

ここのきてようやくホールデンの理解者が。

 

よかった、これでホールデンの心境にも変化が出て、いよいよストーリーの転換期か、と思ったら大間違いでした。

そんな大衆向けご都合主義をサリンジャーが書くわけないんですよね。

 

アントリーニ先生がこの話をホールデンへ聞かせているとき、その本人はというと疲れ切っていてあまり話を聞ける状態じゃなかったんですよね。

頭では理解してるんですけど、心まで響いてない感じ。

むしろ私達読者が「うんうんうん」とうなずいていたのではないでしょうか(笑)

 

しかもそのあとちょっとした誤解(?)が生じてしまい、ホールデンはアントリーニ先生の家を出ていってしまいます。

もうこれでどこにも行き場がなくなってしまったホールデン

 

ホールデンの未来、そして現実

ここまで心に秘めたナイフのような危うさを私達に語ってくれたホールデン

彼の行き先、目指す未来はとても穏やかなものでした。

 

通りがかった車に乗っけてもらって、次から次へと乗りついで行けば、数日のうちに西部のどこかに着くだろう。そこはとてもきれいで、日はうららかで、僕を知っている者は誰もいないし、(略)仕事の種類なんか、なんでもよかったんだ。誰も僕を知らず、僕のほうでも誰をも知らない所でありさえしたら。そこへ行ってどうするかというと、僕は啞でつんぼの人間のふりをしようと考えたんだ。(略)みんなは僕をかわいそうな啞でつんぼの男と思って、ほうっておいてくれるんじゃないか。

 

どうせ自分は社会を変えるほどの権力も、地位もない子ども。

ならばもう何も見ないし、聞こえないように生きよう。

それが幸せなんじゃないか?

 

これ、わかるひと多いんじゃないですかね。

 

例えば、悲惨なニュースをみても、自分には何も出来ない。所詮一過性の情報に過ぎない。

私は虐待のニュースがどうしてもだめ。他にも嫌な理由はいくつかありますけど、ニュース番組は夫が見るから私も見てるという感じ。

基本的にテレビのニュースは一人でいるときなんかはつけません。(特に東京ってニュースの質が低い気があわわ)

ネットに繋がってる時点で勝手に情報は入ってきますし。

 

 

とまあ、余談はここまでにして。

 

ホールデンはこの「インチキ」という考えを人に押し付けることはしません。

実際妹のフィービーが、学校もそっちのけにホールデンについていくと言い出したとき、全力で止めてます。

お前はそのままでいるべきだと。

 

つまり「インチキ社会」ってことを知らないのなら知らなくていいんです。

 

特にコールフィールド家はレールにさえ乗ってさえいれば間違いなく、「幸せ」は確約されていると言っていい。裕福な家庭ですから。

 

ですが、フィービーの幸せはホールデンが居てくれることなんでしょうね。

それを感じ取り、彼はニューヨークから去るのを思いとどまります。

 

 

 

最後、病院でメンタルケアを受けているような描写があるのですが

ホールデンはやはり一般的な視点から見れば「変な子」なのですよね。治療が必要なほど。

 

 

この先治療が功を奏し、社会の欺瞞や欲深さを受け入れて暮らしていくのか

はたまた

インチキ社会だという考えはなくならないまま大人になり、世間に爪痕を残すような存在になるのか。

ジョン・レノン殺害事件の犯人はライ麦畑でつかまえての愛読者であったことは有名ですよね)

 

とにかくどちらに転んでもホールデンは息苦しさを感じたまま生涯を終えるのだろうなということ。

 

インチキな社会を変えようと行動すら起こせない意気地なしな自分。

にも関わらず、社会に馴染めない自分は気違いなんじゃないか。

こういった葛藤。

 

これぞ真のマイノリティなのかもしれません。

「あの人は変な人」で済まされるような。

 

でもこれって変なのかな?

意外と誰しも心のどころかで感じている、感じたことのあるモヤモヤなんじゃないかな。

 

そうじゃなければ、不朽の超名作にはならなかったはずだし。

 

 

 

マイノリティな少年に共感を寄せるマジョリティ(ホールデンの言う低能野郎)な私達。

この矛盾が読者を感傷的にさせてくるのですよね、きっと。

 

 

長ったらしく、取りとめない文になったかと思います。

 

ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。

 

ではでは。